深作まつり第四拾七夜「ギャング同盟」〜わたし、死ぬのが怖くなったの〜
2005年3月7日 深作まつり
←もちろん買いました。山根貞男先生は本当にいい文章書く。先生の深作論を待望していたものとしてはたっぷり楽しめた。
久々の深作まつりは初期作品の「ギャング同盟」。1963年の作品です。「白昼の無頼漢」「ギャング対Gメン」に引き続いて撮られたギャング映画です。主演は日活からフリーになって初主演となる内田良平。東映の作品なんですが大島作品の常連である戸浦六宏、佐藤慶の出演が従来の東映作品と違う彩を添えています。
仲間と共に戦後の闇市で暴れまわった風間(内田良平)が出所してきた。かつての焼け跡は綺麗に整地され、ビルが立ち並んでいた。彼の縄張りも大暴力団の縄張りになっていた。彼はかつての仲間、相棒の高木(佐藤慶)、貧乏暮らしをしていた楠(山本麟一)と柾江(楠侑子)の夫婦、血気盛んな坊や(曽根晴美)、そして大暴力団の事務局長をやっていた尾形(戸浦六宏)を引き込んで暴力団の組長(薄田研二)の誘拐事件を立てた。キレ者の幹部、宮島(平幹二朗)の目を盗んで尾形の策謀で組長とその娘、秋子(三田佳子)の誘拐に成功する。大金を組織に要求するが、彼らが送ってきたのは殺し屋であった。かつての流しの仲間、ジョージ(アイ・ジョージ)の手助けを得て何とか逃げる風間と高木であったが、ヤクザは彼らの隠れ家に向けて出発していた。。
どこか雰囲気がカラリと明るかった「ギャング対Gメン」(の割には死人続出のハードな話ですが)に比べると全編ハードボイルドに満ちて、じっくり見れる作品になっています。筋立ては単純明快なのですが、次の展開が読めない楽しみがあります。ラストは派手な撃ち合いになるんですが、それまでの展開が大変にドキドキさせてくれる。
事務局長の尾形は事務局長で内部から手引きしておるのですが、彼と宮島のやり取りも面白かった。小心者だけどどこかずるくて仲間の中で少し浮いてる曲者ぶりを戸浦六宏が楽しげに演じています。佐藤慶は徹底的にクールで仲間であろうとも切り捨ててしまう参謀を好演。役柄がぴったりやわ。三田佳子のつんとした感じもかわいい。
深作監督がこの作品で考えていたのはギャングの日常性をどう描いていくか、でした。当時、東宝でも日活でもギャング映画はありましたが、無国籍な雰囲気(どこの国かよくわからんが日本じゃないだろう、という感じ)でリアルさにかけていました。だって日本にはギャングはいないわけですから当たり前と言えばまあそうなわけです。その既成のヤクザに当てはまらないギャングを深作監督は戦後の闇市で生き生きと暴れまわっていた風間に重ね合わせています。無秩序な焼け跡への憧憬は深作作品に幾度も出てくるキーワードで、この映画でも風間が焼け跡を懐かしく思って、誘拐を思いついています。。世間を縦横無尽に走り回り、どこまでも前向きで楽観的に生き抜いていく風間のキャラクターはもっとあくが強いキャラクターとなって後の「現代やくざ 人斬り与太」に「仁義なき戦い 広島死闘編」の大友勝利につながっていきます
主演は「十三人の刺客」や「青春の殺人者」の内田良平。大ヒット曲の「ハチのムサシは死んだのさ」(72年 平田隆夫とセルスターズ)の作詞家としても知られます。深作作品では「日本暴力団 組長」で大組織の幹部を演じていますが大組織とかつての友人への情にはさまれて苦悩する幹部を熱演しています。深作の仁侠映画は敵役の方が人間くさくて感情移入しやすい。とってもかっこいいんですが、コミカルな役もできる人で本当にいい役者さんでしたが早くに亡くなりました。深作作品への出演が少ないのも残念。「青春の殺人者」の父親役もよかった。
後に仁侠映画で大活躍する俊藤浩滋プロデューサーがノンクレッジットながら加わっています。俊藤さんが東映に関係するようになったのは東映フライヤーズの関係からで後にアイ・ジョージの企画で東映に出入りするようになったからだそうです。人気歌手だったアイ・ジョージが出演しているのは、そのせい。歌の披露だけでなくて銃撃シーンも披露。
ジャズにのせて軽やかに始まるかっこいいオープニングからテンポよく、映画は進んでいきます。ラストの激しい銃撃シーンは圧巻。仲間が一人一人欠けていく中で妙に元気な風間と坊やの奮闘振りが気持ちいい。モノクロが銃撃シーンの迫力を増すのに効果的でギャング映画らしい雰囲気が出ていました。
監督:深作欣二 脚本:秋元隆太、佐治乾、深作欣二 撮影:山沢義一 美術:中村修一郎
出演:内田良平、佐藤慶、山本麟一、戸浦六宏、楠侑子、曽根晴美、アイ・ジョージ、平幹二朗、八名信夫、薄田研二、沢彰謙、三田佳子
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久々の深作まつりは初期作品の「ギャング同盟」。1963年の作品です。「白昼の無頼漢」「ギャング対Gメン」に引き続いて撮られたギャング映画です。主演は日活からフリーになって初主演となる内田良平。東映の作品なんですが大島作品の常連である戸浦六宏、佐藤慶の出演が従来の東映作品と違う彩を添えています。
仲間と共に戦後の闇市で暴れまわった風間(内田良平)が出所してきた。かつての焼け跡は綺麗に整地され、ビルが立ち並んでいた。彼の縄張りも大暴力団の縄張りになっていた。彼はかつての仲間、相棒の高木(佐藤慶)、貧乏暮らしをしていた楠(山本麟一)と柾江(楠侑子)の夫婦、血気盛んな坊や(曽根晴美)、そして大暴力団の事務局長をやっていた尾形(戸浦六宏)を引き込んで暴力団の組長(薄田研二)の誘拐事件を立てた。キレ者の幹部、宮島(平幹二朗)の目を盗んで尾形の策謀で組長とその娘、秋子(三田佳子)の誘拐に成功する。大金を組織に要求するが、彼らが送ってきたのは殺し屋であった。かつての流しの仲間、ジョージ(アイ・ジョージ)の手助けを得て何とか逃げる風間と高木であったが、ヤクザは彼らの隠れ家に向けて出発していた。。
どこか雰囲気がカラリと明るかった「ギャング対Gメン」(の割には死人続出のハードな話ですが)に比べると全編ハードボイルドに満ちて、じっくり見れる作品になっています。筋立ては単純明快なのですが、次の展開が読めない楽しみがあります。ラストは派手な撃ち合いになるんですが、それまでの展開が大変にドキドキさせてくれる。
事務局長の尾形は事務局長で内部から手引きしておるのですが、彼と宮島のやり取りも面白かった。小心者だけどどこかずるくて仲間の中で少し浮いてる曲者ぶりを戸浦六宏が楽しげに演じています。佐藤慶は徹底的にクールで仲間であろうとも切り捨ててしまう参謀を好演。役柄がぴったりやわ。三田佳子のつんとした感じもかわいい。
深作監督がこの作品で考えていたのはギャングの日常性をどう描いていくか、でした。当時、東宝でも日活でもギャング映画はありましたが、無国籍な雰囲気(どこの国かよくわからんが日本じゃないだろう、という感じ)でリアルさにかけていました。だって日本にはギャングはいないわけですから当たり前と言えばまあそうなわけです。その既成のヤクザに当てはまらないギャングを深作監督は戦後の闇市で生き生きと暴れまわっていた風間に重ね合わせています。無秩序な焼け跡への憧憬は深作作品に幾度も出てくるキーワードで、この映画でも風間が焼け跡を懐かしく思って、誘拐を思いついています。。世間を縦横無尽に走り回り、どこまでも前向きで楽観的に生き抜いていく風間のキャラクターはもっとあくが強いキャラクターとなって後の「現代やくざ 人斬り与太」に「仁義なき戦い 広島死闘編」の大友勝利につながっていきます
主演は「十三人の刺客」や「青春の殺人者」の内田良平。大ヒット曲の「ハチのムサシは死んだのさ」(72年 平田隆夫とセルスターズ)の作詞家としても知られます。深作作品では「日本暴力団 組長」で大組織の幹部を演じていますが大組織とかつての友人への情にはさまれて苦悩する幹部を熱演しています。深作の仁侠映画は敵役の方が人間くさくて感情移入しやすい。とってもかっこいいんですが、コミカルな役もできる人で本当にいい役者さんでしたが早くに亡くなりました。深作作品への出演が少ないのも残念。「青春の殺人者」の父親役もよかった。
後に仁侠映画で大活躍する俊藤浩滋プロデューサーがノンクレッジットながら加わっています。俊藤さんが東映に関係するようになったのは東映フライヤーズの関係からで後にアイ・ジョージの企画で東映に出入りするようになったからだそうです。人気歌手だったアイ・ジョージが出演しているのは、そのせい。歌の披露だけでなくて銃撃シーンも披露。
ジャズにのせて軽やかに始まるかっこいいオープニングからテンポよく、映画は進んでいきます。ラストの激しい銃撃シーンは圧巻。仲間が一人一人欠けていく中で妙に元気な風間と坊やの奮闘振りが気持ちいい。モノクロが銃撃シーンの迫力を増すのに効果的でギャング映画らしい雰囲気が出ていました。
監督:深作欣二 脚本:秋元隆太、佐治乾、深作欣二 撮影:山沢義一 美術:中村修一郎
出演:内田良平、佐藤慶、山本麟一、戸浦六宏、楠侑子、曽根晴美、アイ・ジョージ、平幹二朗、八名信夫、薄田研二、沢彰謙、三田佳子
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【合掌】渡辺文雄、死去
2004年8月5日 深作まつり
☆渡辺文雄、死去。享年74歳。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000014-maip-soci
この人といえばやはり、大島渚の映画なんだろうが私はやはり仁侠映画での強烈な悪役が印象に残っている。深作の「解散式」のインテリヤクザ役なんかよかったなあ。鶴田浩二よりも、こっちの方に気持ちが入った。深作も「このときの渡辺文雄にはびっくりした」と語っています。単純なワルじゃなくて、変わる時勢を嘆くのではなくてむしろ時勢に乗ろうとする。それの何が悪い、と。そう、うそぶくヤクザはめちゃくちゃにかっこいいのだ。「人斬り与太 狂犬三兄弟」の役もずるくてよかった。アクセス元表示で「渡辺文雄 仁義なき戦い」で検索してきた人がたくさんいたんだが、渡辺文雄は「仁義なき戦い」シリーズには出ていません。実録で出た作品が意外に少ないのね。
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=by%5Fname&id=85717&offset=0
暑いせいか、毎日のように有名な人が死んでいくような気がするなあ。。
☆明日は京都の南座で「納涼名作 喜劇まつり」。藤山直美のお芝居を見てきます。イエイ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000014-maip-soci
この人といえばやはり、大島渚の映画なんだろうが私はやはり仁侠映画での強烈な悪役が印象に残っている。深作の「解散式」のインテリヤクザ役なんかよかったなあ。鶴田浩二よりも、こっちの方に気持ちが入った。深作も「このときの渡辺文雄にはびっくりした」と語っています。単純なワルじゃなくて、変わる時勢を嘆くのではなくてむしろ時勢に乗ろうとする。それの何が悪い、と。そう、うそぶくヤクザはめちゃくちゃにかっこいいのだ。「人斬り与太 狂犬三兄弟」の役もずるくてよかった。アクセス元表示で「渡辺文雄 仁義なき戦い」で検索してきた人がたくさんいたんだが、渡辺文雄は「仁義なき戦い」シリーズには出ていません。実録で出た作品が意外に少ないのね。
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=by%5Fname&id=85717&offset=0
暑いせいか、毎日のように有名な人が死んでいくような気がするなあ。。
☆明日は京都の南座で「納涼名作 喜劇まつり」。藤山直美のお芝居を見てきます。イエイ
俺たちの「バトル・ロワイアル」完結編〜深作欣二は何故、この映画を作ったのか〜
2004年6月20日 深作まつり
映画「バトル・ロワイアル」は単純な殺し合い映画ではない。そこにあるのは「どこまで人は他人を信じること、守ることができるか」というしんどすぎる命題である。佐世保の少女はそこを見誤ったのである。週刊誌によると二人の仲は断絶したものではなかったと言う。殺した瞬間に既に後悔してる様子だったから、本当に些細なことで殺してしまったんだろう。もしもこんな事件がなければ、ネットアイドルになってそれなりに楽しい中学、高校生活は送れただろうに。それが幸せかどうかは知らないが。自己防衛にしか過ぎない殺人は結局、自分を殺すことになる。光子があっさりと死んでしまうのは、それを物語っている。彼女は生涯に渡り、その原罪におびえて誰も愛せずに生きるだろう。それが彼女が生涯背負っていく”業”である。
「バトル・ロワイアル」は七原という普通の少年が最愛の人を守る為に国家と戦う決意を固めるところで終わりを告げた。「バトル・ロワイアル?」はテロリストになった七原の物語である。9・11のテロを見た深作父子は、七原の終着点はテロリズムしかないと考えたのだ。七原のテロで娘を失ったRIKI、父親に棄てられたキタノシオリ、そしてまた大人たちによって兵士にされた子どもたちを登場させ、七原と対比させた。他人を守る、という私的なところから、正義とは、使命とは、という大きすぎる命題を突きつける問題作になる。。予定だった。映画館で見た時には正直、辟易したが、今見直すと背景にはすごく説得力あるし、深作が何故この映画を撮ろうと思ったかはわかる。が、ストーリーがぐにゃぐにゃで雑なアクションシーンばかりが目立つ、しんどい作品になってしまった。これは深作健太、助監督の原田徹の力量不足も否めないが、予想以上に歩を進める世界情勢に気をとられすぎて、現代世界のパロディ化を必死にやってしまうことばかりに必死になってしまい、それだけで終わってしまったという印象を受ける。だからこの一作で、深作健太の映画監督的な能力を問うことはやはり酷だと思う。
「深作組」は深作欣二の映画を作るために作られた製作プロダクションである。深作欣二が亡くなった今、深作組はどうなっていくのか。「バトル・ロワイアル?」を作り上げた今、「深作組」の仕事は終わった、と思う。今後は黒澤プロダクションのように深作欣二の映画を管理していく会社になっていくのか。しかし、これも現状としては東映と松竹が既に目ぼしい作品はDVD化してしまったし、権利も持ってないように見える。「仁義なき戦い」って名前も「新・仁義なき戦い」シリーズを持つ東映のものだろうし。
考えられるのは健太氏、または原田徹氏の作品を作っていく製作プロダクションとして歩んでいくか、それかプロデュースを行っていく会社になっていくか、であろう。現在の「深作組」は「バトロワ組」である。そのイメージから脱しきれるのか。健太氏はプロデューサーになるのか、脚本家になるのか、監督になるのか、もよくわからない。健太氏は頭の回転は早いと思うし、荒削りで未完成ながらも「バトルロワイアル?」をヒットさせたのだから、プロデューサーとしての能力は高い。日本映画に一番足りないのは映画を愛する心と時流を読める能力を持ったプロデューサーである。昨年の湯布院映画祭にも来ておられたのだが、ファンに対して真摯に向き合う方なので好感を持った。(私も自サイトの宣伝をして、「深作まつり」という名前にした意味なんかも長々と説明してしまった。ちゃんと聞いてくれた健太氏はきっといい人に違いない。)ぜひ、頑張って欲しい、応援したい映画人である。
「バトル・ロワイアル」とは非常に誤解の受けやすい作品である。イメージ戦略の一種だったとは言え、荒唐無稽な設定ばかりが一人歩きしてしまって、「キルビルvol.1」みたいな作品だと思っている映画ファンもいる。(だから私は「キル・ビル」があまり好きではない。)しかし、ここまで長々と書いてきたように、その本質とはとても純粋な命題である「人間はどう生きるか」に真剣に取っ組み合ってる映画なのである。
確かに深作欣二の映画は暴力を扱うものが多い。「仁義なき戦い」にしても「仁義の墓場」にしてもそうだ。しかし、その暴力は決して自己防衛にのみに特化されるものでなかった。「仁義なき戦い」の、あの感傷すぎるラストは、実録映画の代表作でありながら、後に作られる実録映画とは一線を画している。(これについてはいずれ、じっくり語ろうと思う。)坂井は「自分たちの会社を作るんや」という夢を抱いて、抗争を繰り返してきた。しかしその強引な手法を友人である広能に咎められ、結局は自らも暴力によって死ぬ。深作はのしあがっていく人物を嬉々として描くが一方でその人物は哀れな末路を遂げさせた。「現代やくざ 人斬り与太」「仁義なき戦い」「仁義の墓場」「県警対組織暴力」などはまさにそうした作品であった。決して暴力を肯定するような作品は作っていなかった。「遅れてきた」深作ファンであるが、それだけは理解している。
ps いつか、こういうものを書かねばならないなあと思っていた。今回はいい機会だったと思う。映画評論ってなもんは、百人が百通りを感じるものでそこが面白いのだが、それだけでは映画評論というのはやはりなっていかないと思う。もちろん、意見の尊重は必要だが。皆様がまたどう思われたか、意見を聞かせていただくと幸いである。(あ、掲示板ないんだったな。。)最後に読んでいただいた方々に多謝。
「バトル・ロワイアル」は七原という普通の少年が最愛の人を守る為に国家と戦う決意を固めるところで終わりを告げた。「バトル・ロワイアル?」はテロリストになった七原の物語である。9・11のテロを見た深作父子は、七原の終着点はテロリズムしかないと考えたのだ。七原のテロで娘を失ったRIKI、父親に棄てられたキタノシオリ、そしてまた大人たちによって兵士にされた子どもたちを登場させ、七原と対比させた。他人を守る、という私的なところから、正義とは、使命とは、という大きすぎる命題を突きつける問題作になる。。予定だった。映画館で見た時には正直、辟易したが、今見直すと背景にはすごく説得力あるし、深作が何故この映画を撮ろうと思ったかはわかる。が、ストーリーがぐにゃぐにゃで雑なアクションシーンばかりが目立つ、しんどい作品になってしまった。これは深作健太、助監督の原田徹の力量不足も否めないが、予想以上に歩を進める世界情勢に気をとられすぎて、現代世界のパロディ化を必死にやってしまうことばかりに必死になってしまい、それだけで終わってしまったという印象を受ける。だからこの一作で、深作健太の映画監督的な能力を問うことはやはり酷だと思う。
「深作組」は深作欣二の映画を作るために作られた製作プロダクションである。深作欣二が亡くなった今、深作組はどうなっていくのか。「バトル・ロワイアル?」を作り上げた今、「深作組」の仕事は終わった、と思う。今後は黒澤プロダクションのように深作欣二の映画を管理していく会社になっていくのか。しかし、これも現状としては東映と松竹が既に目ぼしい作品はDVD化してしまったし、権利も持ってないように見える。「仁義なき戦い」って名前も「新・仁義なき戦い」シリーズを持つ東映のものだろうし。
考えられるのは健太氏、または原田徹氏の作品を作っていく製作プロダクションとして歩んでいくか、それかプロデュースを行っていく会社になっていくか、であろう。現在の「深作組」は「バトロワ組」である。そのイメージから脱しきれるのか。健太氏はプロデューサーになるのか、脚本家になるのか、監督になるのか、もよくわからない。健太氏は頭の回転は早いと思うし、荒削りで未完成ながらも「バトルロワイアル?」をヒットさせたのだから、プロデューサーとしての能力は高い。日本映画に一番足りないのは映画を愛する心と時流を読める能力を持ったプロデューサーである。昨年の湯布院映画祭にも来ておられたのだが、ファンに対して真摯に向き合う方なので好感を持った。(私も自サイトの宣伝をして、「深作まつり」という名前にした意味なんかも長々と説明してしまった。ちゃんと聞いてくれた健太氏はきっといい人に違いない。)ぜひ、頑張って欲しい、応援したい映画人である。
「バトル・ロワイアル」とは非常に誤解の受けやすい作品である。イメージ戦略の一種だったとは言え、荒唐無稽な設定ばかりが一人歩きしてしまって、「キルビルvol.1」みたいな作品だと思っている映画ファンもいる。(だから私は「キル・ビル」があまり好きではない。)しかし、ここまで長々と書いてきたように、その本質とはとても純粋な命題である「人間はどう生きるか」に真剣に取っ組み合ってる映画なのである。
確かに深作欣二の映画は暴力を扱うものが多い。「仁義なき戦い」にしても「仁義の墓場」にしてもそうだ。しかし、その暴力は決して自己防衛にのみに特化されるものでなかった。「仁義なき戦い」の、あの感傷すぎるラストは、実録映画の代表作でありながら、後に作られる実録映画とは一線を画している。(これについてはいずれ、じっくり語ろうと思う。)坂井は「自分たちの会社を作るんや」という夢を抱いて、抗争を繰り返してきた。しかしその強引な手法を友人である広能に咎められ、結局は自らも暴力によって死ぬ。深作はのしあがっていく人物を嬉々として描くが一方でその人物は哀れな末路を遂げさせた。「現代やくざ 人斬り与太」「仁義なき戦い」「仁義の墓場」「県警対組織暴力」などはまさにそうした作品であった。決して暴力を肯定するような作品は作っていなかった。「遅れてきた」深作ファンであるが、それだけは理解している。
ps いつか、こういうものを書かねばならないなあと思っていた。今回はいい機会だったと思う。映画評論ってなもんは、百人が百通りを感じるものでそこが面白いのだが、それだけでは映画評論というのはやはりなっていかないと思う。もちろん、意見の尊重は必要だが。皆様がまたどう思われたか、意見を聞かせていただくと幸いである。(あ、掲示板ないんだったな。。)最後に読んでいただいた方々に多謝。
俺たちの「バトル・ロワイアル」頂上作戦〜深作欣二は何故、この映画を作ったのか〜
2004年6月19日 深作まつり
自暴自棄になって、闇雲構わずに突撃をかけた挙句に殺されてしまう男、殺しあうぐらいなら死を選んだカップル、非戦を貫こうと山の上から呼びかけを行うが、桐山に殺されてしまった女子生徒、友人と二人で隠れるが結局は刺し違えた女子生徒、ドサクサにまぎれて女を犯そうとして逆に殺されてしまう男、これは夢だ、と最期まで信じた女、状況において選んだ生き様、死に様は実にいろいろである。俺が一番、ドキドキしたのは灯台の惨劇である。皆で生き残ろうと誓った仲間同士が結局は殺しあってしまう。殺しあうことなんか無意味と頭には思いながら、やはり我が身が可愛いのだ。その中でも象徴的な人物を挙げるとやはり、光子、桐山、三村、杉村、川田、そしてキタノであろう。
おそらく、佐世保の少女が一番興味を抱いたのは光子だろう。不幸な生い立ち(母親が諏訪太郎に売り飛ばした)のために世の中に対して決して発散できることのないルサンチマンを抱いて育った少女は、自分の力で生き残るしかないという特殊な状況においてパワーを発揮する。不意打ち、色仕掛け、奇襲とありとあらゆる手段を使ってゲームを勝ち抜いていく。が、そこには「奪う方に回りたかった」というどこか悲壮感が漂う。死ぬ直前まで、嬉々として人を殺していた彼女だったが結局は桐山に圧倒的な力の差を示され、惨めに死んでいくことになる。演じたのは柴咲コウ。今でこそ、誰もが知る女優であるが当時はCMで少し覚えられた程度でまだまだマイナー。体を張ってのアクションを見ると隔世の感がある。
桐山はリピーターである。彼にはクラスメイトを殺すというそうした後ろめたさがまずない。当初は普通の少年であったかもしれないが、異常な状況の中で彼の中の何かが変わった。彼には感情というものがない。彼にとっての殺人ってのは、今や水を飲む、息をするというのと同じであろう。そうした彼が生きることを許されるのはこの異常な状態だけである。安藤政信は監督に頼んで全ての台詞を削ってもらったという。桐山は過去も全く語られなかった。何か付け加えれば無駄になる。光子、三村を情緒なく殺してしまう。言わば天災のような、理不尽な存在であると思う。
三村は始めからゲームに参加するつもりなどなかった。全ての生徒がこんな無茶なんか通るはずがない、と思いながらも結局は殺しあう結果になってしまった中で、彼は誰も殺さずにクールに脱出方法だけを考えていた。一見、すごく利己的な野郎に見えるが「バトル・ロワイアル」における三村の存在意義は大きい。大人の最大の強みはこのゲームを管理できる、ということである。だったら、その前提をつぶしてしまえばいい。テロリズムである。現にハッキングでコンピュータをめちゃくちゃにされた大人は無様に惑うのみであった。テロリストの叔父を持つという彼にとっては、法律というものは守るものではなく、壊すものだった。そして新しく作り直す。世界がめちゃくちゃなら、新しい世の中を俺が作ってやる。物語の中では一番前向きなキャラクターである。深作健太が一番好きだったのはこの三村ではないか。しかしその三村も桐山の理不尽な暴力の前にあっさりと死んでしまう。演じたのは塚本高史。この人も売れました。「バトル・ロワイアル」って俳優のタマゴがいっぱいでているんだが当時全く、知名度がなくて、今売れているのはこの人ぐらいだな。
杉村はロマンチストである。彼もまた殺し合いに参加しなかった。それは、密かに思いを寄せていた女の子に逢うためである。おそらく、七原が典子を守ったように、彼も彼女を守ってゲームを生き抜こうとした。が、不幸にも彼は死ぬ。その女の子の手にかかってである。あっけない最期ではあるが、考えようによっては一番幸福な最期だったかもしれない。もし、二人で生き残れたとしても川田がたどったような選択をせねばならなかったかもしれないのだから。
そして川田である。川田を演じたのは山本太郎。どこをどう見ても中学生には見えず、それだけでも話題を呼んだ。しかし、映画を見ればわかるのだが、山本太郎はぴったりと役柄にはまっている。それは川田がリピーターという設定で元から中学生でない、ということもあるがそれ以上に川田が明らかにこの集団の中では違うキャラクターであることをよく表しているからだ。(桐山を演じた安藤政信も)彼は”大人”なのだ。深作は自分を川田に重ね合わせた。”大人”の深作欣二を、である。川田は最愛の人と「バトルロワイアル」を戦った。しかし最後には彼女を殺してしまった。彼女自身がそれを望んだ。この重要な役を演じたのは、これがデビューになった美波。当時はまだ中学生になったばかりだが、よくこんな難しい役をやったと思う。川田は最愛の人を最後まで守ることができなかった。その悔しさが彼をもう一度、この異常な状況に送った。この川田の思いに深作はかつての戦争経験を重ねたのではないか。バタバタと級友が撃たれて死んでいく。自分はその死体に隠れて敵が遠ざかるのを待つしかなかった。他者を守ることができなかった。
優秀な闘士である川田は何故、足手まといにしかならない二人を最後まで守ったか。それは彼にとっての一種の仕返しであったのではないだろうか。「人を信じてはいけない」というバトル・ロワイアルのセオリーにだ。彼は他人を、そして最愛の人を守ろうとした七原を最後まで守った。しかし彼にはもう最愛の人はいない。彼は少年ではなく、既に大人なのだ。「川田に”大人”の深作欣二を重ねた」と書いたのはこの意味である。最後に対決することになるキタノは守るべき他人を喪失した、哀れな男である。地獄の中で彼が最後に見た光明は典子であった。しかし彼が七原になれないのは、彼自身が一番わかっていた。七原が典子を守る為に殺した、はじめの人間はキタノになった。キタノは典子を守る為に七原に他人を守る覚悟を決めさせた、と言っていいだろう。
またまた続きます。。
おそらく、佐世保の少女が一番興味を抱いたのは光子だろう。不幸な生い立ち(母親が諏訪太郎に売り飛ばした)のために世の中に対して決して発散できることのないルサンチマンを抱いて育った少女は、自分の力で生き残るしかないという特殊な状況においてパワーを発揮する。不意打ち、色仕掛け、奇襲とありとあらゆる手段を使ってゲームを勝ち抜いていく。が、そこには「奪う方に回りたかった」というどこか悲壮感が漂う。死ぬ直前まで、嬉々として人を殺していた彼女だったが結局は桐山に圧倒的な力の差を示され、惨めに死んでいくことになる。演じたのは柴咲コウ。今でこそ、誰もが知る女優であるが当時はCMで少し覚えられた程度でまだまだマイナー。体を張ってのアクションを見ると隔世の感がある。
桐山はリピーターである。彼にはクラスメイトを殺すというそうした後ろめたさがまずない。当初は普通の少年であったかもしれないが、異常な状況の中で彼の中の何かが変わった。彼には感情というものがない。彼にとっての殺人ってのは、今や水を飲む、息をするというのと同じであろう。そうした彼が生きることを許されるのはこの異常な状態だけである。安藤政信は監督に頼んで全ての台詞を削ってもらったという。桐山は過去も全く語られなかった。何か付け加えれば無駄になる。光子、三村を情緒なく殺してしまう。言わば天災のような、理不尽な存在であると思う。
三村は始めからゲームに参加するつもりなどなかった。全ての生徒がこんな無茶なんか通るはずがない、と思いながらも結局は殺しあう結果になってしまった中で、彼は誰も殺さずにクールに脱出方法だけを考えていた。一見、すごく利己的な野郎に見えるが「バトル・ロワイアル」における三村の存在意義は大きい。大人の最大の強みはこのゲームを管理できる、ということである。だったら、その前提をつぶしてしまえばいい。テロリズムである。現にハッキングでコンピュータをめちゃくちゃにされた大人は無様に惑うのみであった。テロリストの叔父を持つという彼にとっては、法律というものは守るものではなく、壊すものだった。そして新しく作り直す。世界がめちゃくちゃなら、新しい世の中を俺が作ってやる。物語の中では一番前向きなキャラクターである。深作健太が一番好きだったのはこの三村ではないか。しかしその三村も桐山の理不尽な暴力の前にあっさりと死んでしまう。演じたのは塚本高史。この人も売れました。「バトル・ロワイアル」って俳優のタマゴがいっぱいでているんだが当時全く、知名度がなくて、今売れているのはこの人ぐらいだな。
杉村はロマンチストである。彼もまた殺し合いに参加しなかった。それは、密かに思いを寄せていた女の子に逢うためである。おそらく、七原が典子を守ったように、彼も彼女を守ってゲームを生き抜こうとした。が、不幸にも彼は死ぬ。その女の子の手にかかってである。あっけない最期ではあるが、考えようによっては一番幸福な最期だったかもしれない。もし、二人で生き残れたとしても川田がたどったような選択をせねばならなかったかもしれないのだから。
そして川田である。川田を演じたのは山本太郎。どこをどう見ても中学生には見えず、それだけでも話題を呼んだ。しかし、映画を見ればわかるのだが、山本太郎はぴったりと役柄にはまっている。それは川田がリピーターという設定で元から中学生でない、ということもあるがそれ以上に川田が明らかにこの集団の中では違うキャラクターであることをよく表しているからだ。(桐山を演じた安藤政信も)彼は”大人”なのだ。深作は自分を川田に重ね合わせた。”大人”の深作欣二を、である。川田は最愛の人と「バトルロワイアル」を戦った。しかし最後には彼女を殺してしまった。彼女自身がそれを望んだ。この重要な役を演じたのは、これがデビューになった美波。当時はまだ中学生になったばかりだが、よくこんな難しい役をやったと思う。川田は最愛の人を最後まで守ることができなかった。その悔しさが彼をもう一度、この異常な状況に送った。この川田の思いに深作はかつての戦争経験を重ねたのではないか。バタバタと級友が撃たれて死んでいく。自分はその死体に隠れて敵が遠ざかるのを待つしかなかった。他者を守ることができなかった。
優秀な闘士である川田は何故、足手まといにしかならない二人を最後まで守ったか。それは彼にとっての一種の仕返しであったのではないだろうか。「人を信じてはいけない」というバトル・ロワイアルのセオリーにだ。彼は他人を、そして最愛の人を守ろうとした七原を最後まで守った。しかし彼にはもう最愛の人はいない。彼は少年ではなく、既に大人なのだ。「川田に”大人”の深作欣二を重ねた」と書いたのはこの意味である。最後に対決することになるキタノは守るべき他人を喪失した、哀れな男である。地獄の中で彼が最後に見た光明は典子であった。しかし彼が七原になれないのは、彼自身が一番わかっていた。七原が典子を守る為に殺した、はじめの人間はキタノになった。キタノは典子を守る為に七原に他人を守る覚悟を決めさせた、と言っていいだろう。
またまた続きます。。
俺たちの「バトル・ロワイアル」代理戦争〜深作欣二は何故、この映画を作ったのか〜
2004年6月17日 深作まつり
皆様もご存知のように長崎県の佐世保で事件が起こった。小学生の女の子が同級生の女の子をカッターナイフで刺し殺した。傷は首だけでなく、遺体は血みどろであったと言う。首は半分までが切断されていた。尋常な殺しではない。とても、ついやってしまったというものでない。彼女が絶命したのは決して一瞬でなかった。その遺体を目の前にした父親の心情は誰にもわからないのだ。もんたよしのりではないが、言葉にすれば絶対に嘘になるからだ。
そのカッターナイフ少女であるが市内のビデオ店で「バトル・ロワイアル」のDVDを借りていたらしい。少女は小説の「バトル・ロワイアル」の愛読者でサイトでバトルロワイアルに模した小説も書いていた。少女がDVDを見た時期は彼女がちょうどその小説を脱稿した直後に重なる。
正直、こうした報道には辟易したものを感じる。マスコミの犯人探しである。やれネットが悪い、暴力漫画が悪い、日本の硬直した教育制度が悪い、年金制度を無理やり成立させようとする与党の国会運営が悪い、ととにかく、その本人が悪いというところに考えが及ばない。普通に考えたら、同じような境遇の子どもは他にいるし、もっとひどい境遇の子どももいる。そうした子どもたちが一斉に少女の首をカッターナイフで切り裂いておったら日本はアメリカ以上の犯罪大国であろう。何故か犯罪は社会の生み出すものであると考える、お優しい方々でこの列島は溢れておるのだ。かたじけなさに涙がこぼるる。子どもが人を殺すなんて邪悪なことなんか考えるわけがないのだ。暴力映画、暴力小説というのはその格好の原因であるらしい。大谷某あたりが喜んで飛びつきそうなネタであろう。
実は私は小説版を読んでいないので原作がどんな作品かはしっかりは知らない。だから私にとっての「バトル・ロワイアル」とは映画の「バトル・ロワイアル」である。私がこの映画を見たのは大学生の時であったが、この映画は当時の中学、高校生いや、未だにこの世代の若者に人気があるのだ。深作欣二に関する情報をネットで拾おうとすると高校生によるファンサイトが多いことに驚く。そのサイトというのはほとんどが「バトル・ロワイアル」に関するもので2ちゃんねるのスレも所謂「バトロワスレ」である。70歳を過ぎた監督が中学生、高校生を熱狂させる映画を作ったというのは凄いことだと思う。それは、勲章であろう。往年の名監督が所謂、大作主義に逃げ込んでしまう中で国会議員を巻き込んだ問題作を作ったわけですから。が、彼らの興味は「バトル・ロワイアル」だけに留まっており、深作欣二に届くことはないだろうし、実際に届いていない。
深作欣二のそのフィルモグラフィをたどると、深作が最期にこの作品にたどりついたのは必然であったと思う。何故なら、この作品は深作が映画に刻み込んできたメッセージが、見てて恥ずかしいほどに剥き出しになった作品であるからだ。が、「バトル・ロワイアル」だけにこだわるとそのメッセージは見えてこない。題材、そのストーリーから見るにこの作品の本来の商品価値は、「コンクリート」や「自殺サークル」のようなスプラッタムービーであった。中学生のクラスメイトで殺しあうのだ、冷静に考えてみるがいい。何のリアリティもないキワモノなのだ。故・石井議員が非難したのはこの部分であった。ともすればだ、この部分ばかりでこの映画を語る、ええ年して理解のたらん外道(同業の映画監督にもいる。彼にとっての深作は「仁義なき戦い」だけの人であり、他の作品は「シベリア超特急」で同じでその末路は哀れであったと言っていた。追悼番組などに顔を出しておいてこの言い様。本物の外道だな。それから勉強不足としか言いようが無いな。)もおる。
確かにそうしたアクションシーンは衝撃的で魅力であろう。原作の荒唐無稽さも魅力であろう。しかし、そこで満足しちゃったら、駄目だと思う。佐世保の少女が映画を見てどう思ったかはわからない。ただ、本質を本当に理解しているのなら、あのような凶状に及ぶわけがない。これだけは断言できる。何故ならこの映画ってのは究極の反暴力映画だからだ。正直な話、私には小学生、中学生にこの映画ってのはやはりしんどいんじゃないか、と思う。誤解も憶測も全部ひっくるめて、評価してくれと言うのが映画だろうとは思うが、ハードルがやや高すぎる。
深作が小説のバトル・ロワイアルを映画化しようと考えたのは「中学生42人皆殺し」という帯の文字に衝撃を受けたからでした。息子の健太君が何気なく買ってきた本を見てでもちろん、中身も知らなかった。でも、これは映画になる、と思った。それは自分の思いをここならば、昇華できる、そういう作品を作れるということだったのです。その思いというのは深作の15歳の頃。戦争の体験です。
深作自身は従軍はしていません。が、あの時代の国民は全員が常に戦争と隣り合わせでした。毎日のように爆撃機が空を覆う。空襲だ。深作の住んでいた水戸も空襲でやられた。彼の通った中学校も焼失した。機銃掃射でバタバタと民衆は死んでいった。死にたくない、この思いは皆、同じであった。中学生が働いていた工場が爆撃されて、多くの死者を出した。同じ中学生がその死体を片付けた。深作欣二の思い出である。いずれ自分も出征せねばならないのか(実際には少年兵として戦場に向かっていた中学生もいたらしい)という不安よりも前に明日生きているのか、という不安が強かった。皆が生きるために必死だった。そして深作は生き残った。
思うに、生き残った歓びはもちろんあったと思うが、死んでいった級友たちに対するひけ目のようなものもあったのではないだろうか?もちろん、級友が殺そうなんて考えたこともなかっただろう。しかし、戦場で他人が自分の代わりに狙われて、その隙に命からがらに逃げ切るということはあっただろう。彼が手を下したわけではない。皆が生き残るのに精一杯だったのだ。仕方ないことなのであったが「軍旗はためく下に」などを見ると深作はそうした原罪を背負い続けてきたような印象を受けるのだ。
「バトル・ロワイアル」は無人島に集められた、一クラスの中学生が殺し合いをするという設定である。中学生がクラスで殺しあうなんてありえない設定だ。しかし、常に死と隣り合わせだった深作にはこの設定は自分の原体験でもあった。このような無茶な設定でないとあの時、自分が感じた思いみたいなものは表現できないのではないか。級友を見捨てる、を級友を殺すと置き換えねば、と腹をくくったのではないだろうか。
ここでおよそ3000字。。つづく。
そのカッターナイフ少女であるが市内のビデオ店で「バトル・ロワイアル」のDVDを借りていたらしい。少女は小説の「バトル・ロワイアル」の愛読者でサイトでバトルロワイアルに模した小説も書いていた。少女がDVDを見た時期は彼女がちょうどその小説を脱稿した直後に重なる。
正直、こうした報道には辟易したものを感じる。マスコミの犯人探しである。やれネットが悪い、暴力漫画が悪い、日本の硬直した教育制度が悪い、年金制度を無理やり成立させようとする与党の国会運営が悪い、ととにかく、その本人が悪いというところに考えが及ばない。普通に考えたら、同じような境遇の子どもは他にいるし、もっとひどい境遇の子どももいる。そうした子どもたちが一斉に少女の首をカッターナイフで切り裂いておったら日本はアメリカ以上の犯罪大国であろう。何故か犯罪は社会の生み出すものであると考える、お優しい方々でこの列島は溢れておるのだ。かたじけなさに涙がこぼるる。子どもが人を殺すなんて邪悪なことなんか考えるわけがないのだ。暴力映画、暴力小説というのはその格好の原因であるらしい。大谷某あたりが喜んで飛びつきそうなネタであろう。
実は私は小説版を読んでいないので原作がどんな作品かはしっかりは知らない。だから私にとっての「バトル・ロワイアル」とは映画の「バトル・ロワイアル」である。私がこの映画を見たのは大学生の時であったが、この映画は当時の中学、高校生いや、未だにこの世代の若者に人気があるのだ。深作欣二に関する情報をネットで拾おうとすると高校生によるファンサイトが多いことに驚く。そのサイトというのはほとんどが「バトル・ロワイアル」に関するもので2ちゃんねるのスレも所謂「バトロワスレ」である。70歳を過ぎた監督が中学生、高校生を熱狂させる映画を作ったというのは凄いことだと思う。それは、勲章であろう。往年の名監督が所謂、大作主義に逃げ込んでしまう中で国会議員を巻き込んだ問題作を作ったわけですから。が、彼らの興味は「バトル・ロワイアル」だけに留まっており、深作欣二に届くことはないだろうし、実際に届いていない。
深作欣二のそのフィルモグラフィをたどると、深作が最期にこの作品にたどりついたのは必然であったと思う。何故なら、この作品は深作が映画に刻み込んできたメッセージが、見てて恥ずかしいほどに剥き出しになった作品であるからだ。が、「バトル・ロワイアル」だけにこだわるとそのメッセージは見えてこない。題材、そのストーリーから見るにこの作品の本来の商品価値は、「コンクリート」や「自殺サークル」のようなスプラッタムービーであった。中学生のクラスメイトで殺しあうのだ、冷静に考えてみるがいい。何のリアリティもないキワモノなのだ。故・石井議員が非難したのはこの部分であった。ともすればだ、この部分ばかりでこの映画を語る、ええ年して理解のたらん外道(同業の映画監督にもいる。彼にとっての深作は「仁義なき戦い」だけの人であり、他の作品は「シベリア超特急」で同じでその末路は哀れであったと言っていた。追悼番組などに顔を出しておいてこの言い様。本物の外道だな。それから勉強不足としか言いようが無いな。)もおる。
確かにそうしたアクションシーンは衝撃的で魅力であろう。原作の荒唐無稽さも魅力であろう。しかし、そこで満足しちゃったら、駄目だと思う。佐世保の少女が映画を見てどう思ったかはわからない。ただ、本質を本当に理解しているのなら、あのような凶状に及ぶわけがない。これだけは断言できる。何故ならこの映画ってのは究極の反暴力映画だからだ。正直な話、私には小学生、中学生にこの映画ってのはやはりしんどいんじゃないか、と思う。誤解も憶測も全部ひっくるめて、評価してくれと言うのが映画だろうとは思うが、ハードルがやや高すぎる。
深作が小説のバトル・ロワイアルを映画化しようと考えたのは「中学生42人皆殺し」という帯の文字に衝撃を受けたからでした。息子の健太君が何気なく買ってきた本を見てでもちろん、中身も知らなかった。でも、これは映画になる、と思った。それは自分の思いをここならば、昇華できる、そういう作品を作れるということだったのです。その思いというのは深作の15歳の頃。戦争の体験です。
深作自身は従軍はしていません。が、あの時代の国民は全員が常に戦争と隣り合わせでした。毎日のように爆撃機が空を覆う。空襲だ。深作の住んでいた水戸も空襲でやられた。彼の通った中学校も焼失した。機銃掃射でバタバタと民衆は死んでいった。死にたくない、この思いは皆、同じであった。中学生が働いていた工場が爆撃されて、多くの死者を出した。同じ中学生がその死体を片付けた。深作欣二の思い出である。いずれ自分も出征せねばならないのか(実際には少年兵として戦場に向かっていた中学生もいたらしい)という不安よりも前に明日生きているのか、という不安が強かった。皆が生きるために必死だった。そして深作は生き残った。
思うに、生き残った歓びはもちろんあったと思うが、死んでいった級友たちに対するひけ目のようなものもあったのではないだろうか?もちろん、級友が殺そうなんて考えたこともなかっただろう。しかし、戦場で他人が自分の代わりに狙われて、その隙に命からがらに逃げ切るということはあっただろう。彼が手を下したわけではない。皆が生き残るのに精一杯だったのだ。仕方ないことなのであったが「軍旗はためく下に」などを見ると深作はそうした原罪を背負い続けてきたような印象を受けるのだ。
「バトル・ロワイアル」は無人島に集められた、一クラスの中学生が殺し合いをするという設定である。中学生がクラスで殺しあうなんてありえない設定だ。しかし、常に死と隣り合わせだった深作にはこの設定は自分の原体験でもあった。このような無茶な設定でないとあの時、自分が感じた思いみたいなものは表現できないのではないか。級友を見捨てる、を級友を殺すと置き換えねば、と腹をくくったのではないだろうか。
ここでおよそ3000字。。つづく。
今日の深作まつりは1964年の「ジャコ萬と鉄」。1949年に撮られた谷口千吉監督作品の「ジャコ万と鉄」のリメイクです。黒澤明と谷口千吉が脚本を書いています。名作と言われた作品を元の脚本で新人に毛が生えたような監督が撮るというのは相当しんどかったと思います。が、それでもそこそこ面白い作品にしてしまうのは、さすがと言うべきか。会社にしてみると「誇り高き挑戦」のような観念的な作品を撮るような奴に好きなように撮られてはかなわんということでこういう映画を撮らせたようです。会社の思惑もあたったのか、「初めて、二塁打ぐらいのヒットになった」と本人が語るようにそこそこお客さんも入ったようです。
最も、出来栄えについては谷口千吉の「ジャコ万と鉄」は見ていないのですが比較はできません。鉄:三船敏郎、ジャコ万:月形龍之介だったのを、高倉健、丹波哲郎で撮った。高倉健は「人生劇場 飛車角」の熱演などで人気は出てきていましたが、スターに駆け上がるのは翌年に撮られた石井輝男の「網走番外地」。そういや、舞台も同じ北海道だし、高倉健、丹波哲郎というキャストも同じ。荒野をソリで疾走するシーンもあるしね。どことなく、似てるね。
終戦直後のカムイ岬。ニシン漁をしている九兵衛(山形勲)は今日も岬から海を見つめていた。ニシン漁は博打のようなもので、ニシンの大群が来るのを待たねばならない。大勢の出稼ぎ漁師を雇って、その時をひたすらに待っていた。安い給料なので、集まってくるのは流れ者ばかり。どう見ても漁師と思えないほどの大阪弁の優男(江原真二郎)もその一人だった。ある日、隻眼のジャコ萬(丹波哲郎)という男が現れる。ジャコ萬は樺太で九兵衛に船を盗まれ、その恨みを晴らそうとしていたのだ。同じ頃、南方で戦死したと思われていた息子の鉄(高倉健)が帰ってくる。ジャコ萬と鉄は早速、喧嘩を始めてしまう。ジャコ萬は他の漁師が働いていても知らん顔で朝から酒を飲んでいる。鉄はそんなジャコ萬が気に入らないが、父親がしたことを知り、距離をおいていた。
一方、九兵衛のあこぎなやり方に漁師の不満が募り、遂にストライキが起こる。その先頭にたったのがジャコ萬だった。「俺は九兵衛の泣く姿をみたい」と誓った彼にとっては復讐のいい機会だった。鉄は九兵衛に賃金を上げることを約束させて、働かせようとするが。。
ニシン来たかカモメに問えば。。のソーラン節にあるように北海道では大変、ニシン漁が盛んだったそうです。現在は、晦日に食べる”にしんそば”ぐらいしかなじみがありませんが、大正時代から戦後すぐにかけてまでとてもよく取れた。深作監督は実際に北海道でニシン漁をロケしたそうですが、既に全盛期が終わってて撮影には苦労したそうです。
物語のクライマックスはジャコ萬と鉄の対決です。漁師たちがストライキを起こして、ニシンは取らないと団結する。九兵衛は「まず、ニシンを取らないとおまえたちに給料も払えない」と怒り、漁師たちの中にもそうだなと思い出すものもいますがジャコ萬がそれを暴力で押さえ込んでしまう。鉄は九兵衛に給料をあげることを約束させて「あのニシンは親父の魚じゃない。俺たちの魚だ」と説得して漁に出ます。諦めきれないジャコ萬は鉄と決闘する。この決闘シーンも実にかっこいい。
谷口監督が撮った1949年ごろは東宝争議という有名な組合運動があって、まともに映画が撮れるような状態じゃなかった。黒澤もこの時期には東宝を離れて、「白痴」を松竹で撮っています。表現者から見れば、組合運動に対する思いというのは「まずニシンを取らないと仕方ないじゃないか」という考えに近かったようです。深作監督は東映で起こった組合運動にも距離をおいていましたし、組合運動にどのような意見を持っていたのかはわかりません。ただ、この映画については「ニシンをとったら負け」と思っていたらしいです。前作を見てないので、比較ができないのが残念。
ただ今作はそうした理屈ぬきでも十分楽しめるアクション作品です。何よりも高倉健がいい。一般的イメージの高倉健は寡黙な男ですが今作の健さんは南洋の踊りを踊りながら、舌を出しておどけるなど三枚目的なところも見せています。高倉健とはこの次の「狼と豚と人間」と「カミカゼ野郎」の特別出演の三本だけです。丹波哲郎のジャコ萬もいい。丹波哲郎のジャコ萬もいい。片目で毛皮のちゃんちゃんこを羽織ってるところはどう見ても、悪役にしか見えない。こういう得体にしれない悪役をやらせると実にうまい。鉄が惚れる少女を演じた入江若葉も可愛い。高倉健と丹波哲郎の魅力を最大限に生かしきった佳作と言える作品だと思います。まあこういう作品を撮れるということ。
監督:深作欣二 脚本:黒澤明、谷口千吉 音楽:佐藤勝 撮影:坪井誠 助監督:野田幸男
出演:高倉健、江原真二郎、入江若葉、山形勲、南田洋子、大坂志郎、高千穂ひづる、渡辺粂子、丹波哲郎
最も、出来栄えについては谷口千吉の「ジャコ万と鉄」は見ていないのですが比較はできません。鉄:三船敏郎、ジャコ万:月形龍之介だったのを、高倉健、丹波哲郎で撮った。高倉健は「人生劇場 飛車角」の熱演などで人気は出てきていましたが、スターに駆け上がるのは翌年に撮られた石井輝男の「網走番外地」。そういや、舞台も同じ北海道だし、高倉健、丹波哲郎というキャストも同じ。荒野をソリで疾走するシーンもあるしね。どことなく、似てるね。
終戦直後のカムイ岬。ニシン漁をしている九兵衛(山形勲)は今日も岬から海を見つめていた。ニシン漁は博打のようなもので、ニシンの大群が来るのを待たねばならない。大勢の出稼ぎ漁師を雇って、その時をひたすらに待っていた。安い給料なので、集まってくるのは流れ者ばかり。どう見ても漁師と思えないほどの大阪弁の優男(江原真二郎)もその一人だった。ある日、隻眼のジャコ萬(丹波哲郎)という男が現れる。ジャコ萬は樺太で九兵衛に船を盗まれ、その恨みを晴らそうとしていたのだ。同じ頃、南方で戦死したと思われていた息子の鉄(高倉健)が帰ってくる。ジャコ萬と鉄は早速、喧嘩を始めてしまう。ジャコ萬は他の漁師が働いていても知らん顔で朝から酒を飲んでいる。鉄はそんなジャコ萬が気に入らないが、父親がしたことを知り、距離をおいていた。
一方、九兵衛のあこぎなやり方に漁師の不満が募り、遂にストライキが起こる。その先頭にたったのがジャコ萬だった。「俺は九兵衛の泣く姿をみたい」と誓った彼にとっては復讐のいい機会だった。鉄は九兵衛に賃金を上げることを約束させて、働かせようとするが。。
ニシン来たかカモメに問えば。。のソーラン節にあるように北海道では大変、ニシン漁が盛んだったそうです。現在は、晦日に食べる”にしんそば”ぐらいしかなじみがありませんが、大正時代から戦後すぐにかけてまでとてもよく取れた。深作監督は実際に北海道でニシン漁をロケしたそうですが、既に全盛期が終わってて撮影には苦労したそうです。
物語のクライマックスはジャコ萬と鉄の対決です。漁師たちがストライキを起こして、ニシンは取らないと団結する。九兵衛は「まず、ニシンを取らないとおまえたちに給料も払えない」と怒り、漁師たちの中にもそうだなと思い出すものもいますがジャコ萬がそれを暴力で押さえ込んでしまう。鉄は九兵衛に給料をあげることを約束させて「あのニシンは親父の魚じゃない。俺たちの魚だ」と説得して漁に出ます。諦めきれないジャコ萬は鉄と決闘する。この決闘シーンも実にかっこいい。
谷口監督が撮った1949年ごろは東宝争議という有名な組合運動があって、まともに映画が撮れるような状態じゃなかった。黒澤もこの時期には東宝を離れて、「白痴」を松竹で撮っています。表現者から見れば、組合運動に対する思いというのは「まずニシンを取らないと仕方ないじゃないか」という考えに近かったようです。深作監督は東映で起こった組合運動にも距離をおいていましたし、組合運動にどのような意見を持っていたのかはわかりません。ただ、この映画については「ニシンをとったら負け」と思っていたらしいです。前作を見てないので、比較ができないのが残念。
ただ今作はそうした理屈ぬきでも十分楽しめるアクション作品です。何よりも高倉健がいい。一般的イメージの高倉健は寡黙な男ですが今作の健さんは南洋の踊りを踊りながら、舌を出しておどけるなど三枚目的なところも見せています。高倉健とはこの次の「狼と豚と人間」と「カミカゼ野郎」の特別出演の三本だけです。丹波哲郎のジャコ萬もいい。丹波哲郎のジャコ萬もいい。片目で毛皮のちゃんちゃんこを羽織ってるところはどう見ても、悪役にしか見えない。こういう得体にしれない悪役をやらせると実にうまい。鉄が惚れる少女を演じた入江若葉も可愛い。高倉健と丹波哲郎の魅力を最大限に生かしきった佳作と言える作品だと思います。まあこういう作品を撮れるということ。
監督:深作欣二 脚本:黒澤明、谷口千吉 音楽:佐藤勝 撮影:坪井誠 助監督:野田幸男
出演:高倉健、江原真二郎、入江若葉、山形勲、南田洋子、大坂志郎、高千穂ひづる、渡辺粂子、丹波哲郎
深作まつり第四十五夜〜必殺4 恨みはらします〜そんなのありかよ!
2004年3月25日 深作まつり
今日の深作まつりは「必殺4 恨みはらします」。藤田まことの代表作「必殺仕置人」の映画化です。あまり知られていないことですが、深作監督は「必殺仕置人」の前作で「必殺」シリーズの始まりとなった「必殺仕掛人」の演出をしています。第一話と第二話、第二十四話を撮っていますが、第一話には撮影に一ヶ月も費やしたそうです。なお、「必殺仕置人」の制作にも参加し、主演を藤田まことに決めて主人公のキャラクター設定も行っています。(第一話を監督する予定だったそうですが「仁義なき戦い」でブレイクしていたあとで映画作るのに忙しすぎて監督はしなかったようです。)必殺シリーズと言うと貞永監督のイメージが強いですけどね。
深作が演出したドラマシリーズとして最も有名なのは「傷だらけの天使」でしょうが、他にも「アイフル大作戦」「キイハンター」「バーディ大作戦」「Gメン75’」などのヒットシリーズがたくさんあります。キャラクター設定やどんな役者を使うかということを考えて、一作か二作を監督してドラマの流れを作る、あとは後任に任せてしまうというやり方で全てを監修していたわけではないみたいです。私のようにリアルタイムで深作を見てない、遅れた深作ファンには映画をおっかけるだけで精一杯なんですが、深作監督の仕事の幅は実に広い。ドラマ以外にも舞台の演出とかラジオドラマの演出もやってましたし、晩年にはゲームの演出もやってました。「キイハンター」なんてやはりその世代にとっては特別な思いがありますし、またその人たちから見る深作監督も私とは違ったもんなんでしょう。興味が尽きない人でございます。トコトン行くで、ホンマ。
80年代、角川映画の出現や洋画が邦画を圧倒するなど映画業界は大きく変わりました。それはドラマと映画の関係をも、変えつつありました。大映が倒産し、日活が映画を作らなくなるなど70年代に映画業界は縮小しつつありました。そのスタッフ達がどこに流れた、というとドラマに流れた。大映のエースであった増村保造も晩年は大映ドラマを演出しています。東映、松竹、東宝でも多くのスタッフがドラマに流れた。それまでドラマと言うと撮影所の片隅でこっそり撮っているという感じだったのですが徐々に質的にも本編(映画)と肩を並べるようになってきて、会社の屋台骨を背負うようになっていく。そうなるとヒットしたドラマが映画化されるということも起こってきます。今では当たり前のことなんですが。当時、ドラマの現場にいた三池崇史の「監督中毒」なんかを読むと当時の撮影所の様子が知れて面白い。
「必殺」シリーズも高視聴率番組だったからドラマから映画になった例でこの「必殺4」もテレビシリーズで並行して撮られていた。つまり藤田まこと以下の仕事人はテレビと掛け持ち(「テッパリ」と言うらしい)だったので映画の撮影につきっきりと言うわけにはいかない。でも深作監督はテストばっかりで終わる日があるぐらいで撮影に時間がかかる監督です。「映画監督・深作欣二」によると仕事人(藤田まこと含む)の登場シーンはほとんど吹替えだったそうです。だから出てくるシーンが夜ばっかり。そこを必殺シリーズの常連である撮影の石原興、照明の中島利男コンビがうまく撮る。彼らは「忠臣蔵外伝四谷怪談」「阿部一族」でも撮影、照明を担当しています。
映画でも藤田まことはある程度出てきますが他の仕事人はほとんど出てこない。藤田まことのライバルである、千葉真一が主役みたいなもんです。独楽をあやつりながら、子連れで敵をしとめる仕事人なんですが、これがなかなかかっこいい。藤田まことはターゲットである、旗本愚連隊を狙いますが、千葉真一に先を越されてしまう。そこに町奉行である真田広之がからんでくる、というストーリーになっていきます。真田広之は何故か前髪を残しており、うっすら化粧をしています。「柳生一族の陰謀」の白塗り公家はもう強烈でしたが、この映画の旗本愚連隊ももう髪をたてたり、ド派手な羽織をつけたりもう好きなようにしています。悪役に如何にも悪そうな扮装をさせたりするのは歌舞伎みたいで面白いです。ただやりすぎるとあほらしいですがこれくらいは許容範囲でしょう。
圧巻はおけら長屋の連中と旗本愚連隊の決闘から続く一連のシーン。ラストの千葉真一と蟹江敬三の決闘は圧巻です。舞台となるのはスラムと思われるおけら長屋でセットが作られたのが下鴨神社の境内です。このロケーションもまたいいのだ。隣に森があって、荒地にごちゃごちゃした長屋が広がっている。このシーンがあまりにもよすぎて、最後の仕事人の活躍があんまり目立たない。「必殺」ファンにとっては、待ってました!なんでしょうけど、なんか付け足しみたいになってる。真田広之のやられ方もねえ、本人自体が「そんなの、ありかよ」って言ってますけど(笑)。
長屋の住人に常連の室田日出男。今作が深作映画出演の最後になりました。この頃から髭を生やし始めて風格のある役柄が多くなりました。オープニングの刃傷騒動を起こす侍に石橋蓮司。長屋の影がある浪人に本田博太郎などが見えます。千葉ちゃんの娘を演じた相楽ハル子はもう明らかに時代劇の芝居じゃないんですが、そこが新鮮で可愛い。千葉ちゃんに噛み付いて、ニッと笑うシーンは思わず、ゾクッと来ます。スタッフには深作組の若頭・原田徹氏の名前が見えます。少し長いのでややだれ場もありますが、楽しんでみてください。
監督:深作欣二 脚本:深作欣二、中原朗、野上龍雄 撮影:石原興 照明:中島利男 音楽:平尾昌晃 美術:太田誠一 助監督:原田徹
出演:千葉真一、岸田今日子、相楽ハル子、石橋蓮司、真田広之、笹野高史、室田日出男、成田三樹夫、本田博太郎、古舘ゆき、藤木孝、蟹江敬三、村上弘明、菅井きん、三田村邦彦、かとうかずこ、ひかる一平、白木万理、倍賞美津子、堤大二郎、藤田まこと
深作が演出したドラマシリーズとして最も有名なのは「傷だらけの天使」でしょうが、他にも「アイフル大作戦」「キイハンター」「バーディ大作戦」「Gメン75’」などのヒットシリーズがたくさんあります。キャラクター設定やどんな役者を使うかということを考えて、一作か二作を監督してドラマの流れを作る、あとは後任に任せてしまうというやり方で全てを監修していたわけではないみたいです。私のようにリアルタイムで深作を見てない、遅れた深作ファンには映画をおっかけるだけで精一杯なんですが、深作監督の仕事の幅は実に広い。ドラマ以外にも舞台の演出とかラジオドラマの演出もやってましたし、晩年にはゲームの演出もやってました。「キイハンター」なんてやはりその世代にとっては特別な思いがありますし、またその人たちから見る深作監督も私とは違ったもんなんでしょう。興味が尽きない人でございます。トコトン行くで、ホンマ。
80年代、角川映画の出現や洋画が邦画を圧倒するなど映画業界は大きく変わりました。それはドラマと映画の関係をも、変えつつありました。大映が倒産し、日活が映画を作らなくなるなど70年代に映画業界は縮小しつつありました。そのスタッフ達がどこに流れた、というとドラマに流れた。大映のエースであった増村保造も晩年は大映ドラマを演出しています。東映、松竹、東宝でも多くのスタッフがドラマに流れた。それまでドラマと言うと撮影所の片隅でこっそり撮っているという感じだったのですが徐々に質的にも本編(映画)と肩を並べるようになってきて、会社の屋台骨を背負うようになっていく。そうなるとヒットしたドラマが映画化されるということも起こってきます。今では当たり前のことなんですが。当時、ドラマの現場にいた三池崇史の「監督中毒」なんかを読むと当時の撮影所の様子が知れて面白い。
「必殺」シリーズも高視聴率番組だったからドラマから映画になった例でこの「必殺4」もテレビシリーズで並行して撮られていた。つまり藤田まこと以下の仕事人はテレビと掛け持ち(「テッパリ」と言うらしい)だったので映画の撮影につきっきりと言うわけにはいかない。でも深作監督はテストばっかりで終わる日があるぐらいで撮影に時間がかかる監督です。「映画監督・深作欣二」によると仕事人(藤田まこと含む)の登場シーンはほとんど吹替えだったそうです。だから出てくるシーンが夜ばっかり。そこを必殺シリーズの常連である撮影の石原興、照明の中島利男コンビがうまく撮る。彼らは「忠臣蔵外伝四谷怪談」「阿部一族」でも撮影、照明を担当しています。
映画でも藤田まことはある程度出てきますが他の仕事人はほとんど出てこない。藤田まことのライバルである、千葉真一が主役みたいなもんです。独楽をあやつりながら、子連れで敵をしとめる仕事人なんですが、これがなかなかかっこいい。藤田まことはターゲットである、旗本愚連隊を狙いますが、千葉真一に先を越されてしまう。そこに町奉行である真田広之がからんでくる、というストーリーになっていきます。真田広之は何故か前髪を残しており、うっすら化粧をしています。「柳生一族の陰謀」の白塗り公家はもう強烈でしたが、この映画の旗本愚連隊ももう髪をたてたり、ド派手な羽織をつけたりもう好きなようにしています。悪役に如何にも悪そうな扮装をさせたりするのは歌舞伎みたいで面白いです。ただやりすぎるとあほらしいですがこれくらいは許容範囲でしょう。
圧巻はおけら長屋の連中と旗本愚連隊の決闘から続く一連のシーン。ラストの千葉真一と蟹江敬三の決闘は圧巻です。舞台となるのはスラムと思われるおけら長屋でセットが作られたのが下鴨神社の境内です。このロケーションもまたいいのだ。隣に森があって、荒地にごちゃごちゃした長屋が広がっている。このシーンがあまりにもよすぎて、最後の仕事人の活躍があんまり目立たない。「必殺」ファンにとっては、待ってました!なんでしょうけど、なんか付け足しみたいになってる。真田広之のやられ方もねえ、本人自体が「そんなの、ありかよ」って言ってますけど(笑)。
長屋の住人に常連の室田日出男。今作が深作映画出演の最後になりました。この頃から髭を生やし始めて風格のある役柄が多くなりました。オープニングの刃傷騒動を起こす侍に石橋蓮司。長屋の影がある浪人に本田博太郎などが見えます。千葉ちゃんの娘を演じた相楽ハル子はもう明らかに時代劇の芝居じゃないんですが、そこが新鮮で可愛い。千葉ちゃんに噛み付いて、ニッと笑うシーンは思わず、ゾクッと来ます。スタッフには深作組の若頭・原田徹氏の名前が見えます。少し長いのでややだれ場もありますが、楽しんでみてください。
監督:深作欣二 脚本:深作欣二、中原朗、野上龍雄 撮影:石原興 照明:中島利男 音楽:平尾昌晃 美術:太田誠一 助監督:原田徹
出演:千葉真一、岸田今日子、相楽ハル子、石橋蓮司、真田広之、笹野高史、室田日出男、成田三樹夫、本田博太郎、古舘ゆき、藤木孝、蟹江敬三、村上弘明、菅井きん、三田村邦彦、かとうかずこ、ひかる一平、白木万理、倍賞美津子、堤大二郎、藤田まこと
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深作まつり第四十四夜〜「ファンキーハットの快男児 二千万円の腕」
2004年3月20日 深作まつり
今日の深作まつりは「ファンキーハットの快男児 二千万円の腕」。「ファンキーハットの快男児」と並行して撮られた作品で61年の9月にニュー東映で公開されています。でも映画を見ると東映の三角マークなんですけど。キャストは「ファンキーハットの快男児」とほとんど同じでストーリーも同じような作品ですが、こちらはいくらか脚本がこなれています。三保敬太郎のジャズもなんとも心地よいです。
ストーリーはプロ契約を目前とした大型甲子園球児の失踪を千葉ちゃんが捜査するもの。ここに突然姿をくらませた整形外科医(その助手は溺死体で発見されている)とタクシー運転手が起こしたと主張する交通事故、その被害者は忽然と消えてしまった。この二つのサイドストーリーがからんできてやがて一つの事件につながっていく。なんか「踊る大捜査線」みてえだな。どうでもいい話ですが「踊る」の映画版の脚本は「仁義なき戦い 代理戦争」を下敷きに書いたとか。ホンマかいな。
前作と同じで千葉真一の魅力が精一杯に生かされた作品。千葉ちゃんの運動神経と爽やかな笑いがなんとも心地いい。中原ひとみ演じるスポーツ記者もおきゃん(死後)で楽しいです。
スタッフ 監督:深作欣二 脚本:池田雄一、田辺虎男 撮影:内田安夫 音楽:三保敬太郎
キャスト:千葉真一、中原ひとみ、十朱久雄、加藤嘉、沢彰謙、須藤健、潮健児、高田博、花沢徳衛、岡本四郎、神田隆
ストーリーはプロ契約を目前とした大型甲子園球児の失踪を千葉ちゃんが捜査するもの。ここに突然姿をくらませた整形外科医(その助手は溺死体で発見されている)とタクシー運転手が起こしたと主張する交通事故、その被害者は忽然と消えてしまった。この二つのサイドストーリーがからんできてやがて一つの事件につながっていく。なんか「踊る大捜査線」みてえだな。どうでもいい話ですが「踊る」の映画版の脚本は「仁義なき戦い 代理戦争」を下敷きに書いたとか。ホンマかいな。
前作と同じで千葉真一の魅力が精一杯に生かされた作品。千葉ちゃんの運動神経と爽やかな笑いがなんとも心地いい。中原ひとみ演じるスポーツ記者もおきゃん(死後)で楽しいです。
スタッフ 監督:深作欣二 脚本:池田雄一、田辺虎男 撮影:内田安夫 音楽:三保敬太郎
キャスト:千葉真一、中原ひとみ、十朱久雄、加藤嘉、沢彰謙、須藤健、潮健児、高田博、花沢徳衛、岡本四郎、神田隆
深作まつり第四十三夜「ファンキーハットの快男児」〜ジャズと映画〜
2004年2月17日 深作まつり
←音楽を担当した三保敬太郎はイレブンPMの音楽を作曲した人。
今日の深作まつりはデビュー三作目の「ファンキーハットの快男児」。「赤い谷の惨劇」が61年の6月9日に封切、「岬を巡る黒い風」が6月23日に封切で今作が8月5日に封切。9月には「二千万の腕」で11月には「白昼の無頼漢」とこの年、5本の映画を封切っています。昔は凄いペースで撮影していたんです。なお、今作も主演は千葉真一。例によって60分ぐらいの中篇で「二千万の腕」と二本持ちで撮影しています。共演は中原ひとみ、十朱久雄、潮健児に大映の名優、加藤嘉。加藤嘉は「仁義なき戦い 広島死闘編」でも千葉ちゃんと共演しています。名シーン「ありゃオメコの汁でメシ食うとるんで」のところです。変われば変わるもんやな、とこの映画の千葉ちゃんを見て思う。
月並みな帽子をポーンと放り投げ、ファンキーハットをかぶって外車でぶっ飛ばす調子のいい男、その名も天下一郎。略せば天下一!これが千葉ちゃん演じる主人公。中原ひとみが大企業の一人娘なんだけど趣味が株の取引。この女の子に引きずられて事件に巻き込まれてしまうというのが主な筋なんですが脚本は、深作監督曰く「話は全然面白くなかったなあ(笑)」とお世辞にもよくできているとは言い難い。誘拐した人質をあっさりと帰したりしている。ストーリーなんかどうでもいい。とにかくリズムよく見せればええ、という感じでいい加減な映画なんですが確かにテンポがいい。
全編通じて流れるジャズが心地よい。深作の初期作品はジャズが使われることが多いです。音楽を担当したのは日本ジャズ界の作編曲に大きな影響を与えた第一人者で、後に”モダンジャズ三人の会”を結成する作曲家であり、ピアニストでもあった三保敬太郎。石井輝男の「花と嵐とギャング」の音楽も担当しています。深作監督はジャズが好きで後に千葉ちゃんに「俺の演出のリズムはジャズなんだよ」と語ったそうです。ジャズをただ聴くだけでなく、ジャズのリズムを映画に取り込むってところがやはり、非凡じゃないですね。
見せ場は千葉ちゃんの運動神経。元器械体操の選手だった経験を生かしての飛んだり跳ねたりが実にダイナミックです。大車輪を披露するシーンがあるんだが、凄い迫力なんだ。潮健児とのカーチェースがあるんだが、なんとこの時に免許を持ってなかったらしい。スタッフも深作も持ってなくて街中で撮影してた。今考えると恐ろしい話ですな。もちろん相手役の潮健児も持ってなかった。(笑)
共演者は中原ひとみの可愛さが目を引くんだが、チョイ役で出演してた新井茂子、八代万智子も大変可愛い。昔の映画を見てたら、息を呑むような綺麗な女優さんが出てくることがある。音楽にせよ女優にせよ、やっぱりお金がかかってる。
監督:深作欣二 脚本:池田雄一、田辺虎男 撮影:内田安夫 音楽:三保敬太郎
出演:千葉真一、中原ひとみ、十朱久雄、新井茂子、加藤嘉、八代万智子、須藤健、潮健児、矢島由紀子、高田博、花沢徳衛、岡本四郎
今日の深作まつりはデビュー三作目の「ファンキーハットの快男児」。「赤い谷の惨劇」が61年の6月9日に封切、「岬を巡る黒い風」が6月23日に封切で今作が8月5日に封切。9月には「二千万の腕」で11月には「白昼の無頼漢」とこの年、5本の映画を封切っています。昔は凄いペースで撮影していたんです。なお、今作も主演は千葉真一。例によって60分ぐらいの中篇で「二千万の腕」と二本持ちで撮影しています。共演は中原ひとみ、十朱久雄、潮健児に大映の名優、加藤嘉。加藤嘉は「仁義なき戦い 広島死闘編」でも千葉ちゃんと共演しています。名シーン「ありゃオメコの汁でメシ食うとるんで」のところです。変われば変わるもんやな、とこの映画の千葉ちゃんを見て思う。
月並みな帽子をポーンと放り投げ、ファンキーハットをかぶって外車でぶっ飛ばす調子のいい男、その名も天下一郎。略せば天下一!これが千葉ちゃん演じる主人公。中原ひとみが大企業の一人娘なんだけど趣味が株の取引。この女の子に引きずられて事件に巻き込まれてしまうというのが主な筋なんですが脚本は、深作監督曰く「話は全然面白くなかったなあ(笑)」とお世辞にもよくできているとは言い難い。誘拐した人質をあっさりと帰したりしている。ストーリーなんかどうでもいい。とにかくリズムよく見せればええ、という感じでいい加減な映画なんですが確かにテンポがいい。
全編通じて流れるジャズが心地よい。深作の初期作品はジャズが使われることが多いです。音楽を担当したのは日本ジャズ界の作編曲に大きな影響を与えた第一人者で、後に”モダンジャズ三人の会”を結成する作曲家であり、ピアニストでもあった三保敬太郎。石井輝男の「花と嵐とギャング」の音楽も担当しています。深作監督はジャズが好きで後に千葉ちゃんに「俺の演出のリズムはジャズなんだよ」と語ったそうです。ジャズをただ聴くだけでなく、ジャズのリズムを映画に取り込むってところがやはり、非凡じゃないですね。
見せ場は千葉ちゃんの運動神経。元器械体操の選手だった経験を生かしての飛んだり跳ねたりが実にダイナミックです。大車輪を披露するシーンがあるんだが、凄い迫力なんだ。潮健児とのカーチェースがあるんだが、なんとこの時に免許を持ってなかったらしい。スタッフも深作も持ってなくて街中で撮影してた。今考えると恐ろしい話ですな。もちろん相手役の潮健児も持ってなかった。(笑)
共演者は中原ひとみの可愛さが目を引くんだが、チョイ役で出演してた新井茂子、八代万智子も大変可愛い。昔の映画を見てたら、息を呑むような綺麗な女優さんが出てくることがある。音楽にせよ女優にせよ、やっぱりお金がかかってる。
監督:深作欣二 脚本:池田雄一、田辺虎男 撮影:内田安夫 音楽:三保敬太郎
出演:千葉真一、中原ひとみ、十朱久雄、新井茂子、加藤嘉、八代万智子、須藤健、潮健児、矢島由紀子、高田博、花沢徳衛、岡本四郎