ビートたけし主演作「教祖誕生」〜こんなことで神を感じるなんて〜
2004年4月19日 過去日本映画
今日はスカパーで見た「教祖誕生」。新興宗教をテーマにしたビートたけしの小説を映画化したものでたけしも出演しています。主演は芸能界きっての武闘派、萩原聖人。共演は岸部一徳に突然、コンサートを止めるなど人格的にどうかと思う玉置浩二など。
田舎を一人旅をしていたカズオ(萩原聖人)はある新興宗教団体の布教活動を目撃する。うさんくさそうな男(ビートたけし)が声を張り上げ、これまたヨレヨレの爺さん(下条正巳)が手かざしで車椅子の婆さんの足を治してしまう。婆さんがスタスタと歩き出すと長身の男(岸部一徳)が本を回りの人に売りつけようとする。電車に乗ろうと駅に行くと教祖の爺さんと親しく話す婆さんがいた。何のことは無い、サクラだったのだ。元より目的のある旅じゃない。面白そうと思ったカズオは同行を申し出るが駒村(玉置浩二)に断られてしまう。彼は真面目に宗教をやっていたので、興味本位な入信を嫌ったのだ。が、声を張り上げていたうさんくさい男、司馬の許可を得て同行することになる。
司馬と長身の男、呉にしてみれば、新興宗教なんてのはビジネス以外の何者でもない。この”教祖”も実は酔っ払いの浮浪者で手に仕込んだバッテリーで火花を出しているだけだった。彼ら二人が経理部門をしていた。それに対し、駒村は神は本当にいると信じていた。手かざしは本物なんだよ、と熱く語る駒村は呉と司馬を嫌っていた。ドサ回りのように田舎の村々を回っての布教の成果か、徐々に大きくなる教団。調子に乗った教祖は呉や司馬の言うことを聞かなくなり、「本当の病人を連れてきてみろ。今の俺なら治せるよ」などとフザけたことを口走るようになっていた。キレた司馬はある晩、金を握らせて追い出してしまう。二代目教祖に任命されたのは何とカズオだった。
何も分からぬままに教祖になったカズオだったが、断食や滝に打たれるなどの修行を行って何とか教祖らしくなろうとする。これが真面目な考えだったかわからないが、その姿に感動した駒村は教団の金儲け主義を批判し、司馬に対抗する。。。
新興宗教の中にはどう考えてもうさんくさいし、金儲けにしか見えないものもあります。が、それを信じている人は至って真面目で真剣。何年か前のオウム事件にしても、一般人から見れば「わからん」の連続で結局、双方とも何の歩み寄りがないまま現在に至っています。オウムはそれでも無くならないしね。80年代の一時期、ポストモダンってのがはやって新興宗教もそうした中で大きくなった。お互いの価値観を認めようってやつ。映画に出てくる司馬ってのはそんなの、全然信じていない。形はどうであれ、金を儲けることが全てだろうと。これは司馬を演じて原作を書いたたけしの考えでもあるんでしょう。でもその司馬も結局はつまづいてしまう。つまづいたところで「罰があたったんだ」なんて思う司馬もやはり、この新興宗教の一員でしかなかったのです。
カズオは”神輿の教祖”ですが、修行をしたことで自分に神の力があると思い込んでしまう。映画の中ではまともな人間に見えますが、一番のお調子者です。ラストで呉に「無礼者!」と一喝するシーンがあるのですが、ちっとも迫力が無い。これは萩原の演技力がない(萩原は相当に演技力を持った俳優だと思う)のではなくて、こいつも結局はこの狭い団体の中で権力を握ろうとするちっぽけな人間でしかないという演出なんでしょう。
前半のドサ回りののどかなシーンから徐々にどろどろとした抗争に突入していく。展開が割りと早くてテンポがとてもいい。94分という時間にコンパクトにまとめた脚本がなかなか見事。監督はたけしの助監督をしていた天間敏広。これが初監督作品でしたが、その後は一度もメガホンを取っていません。なかなかいい演出をしていただけにもったいない気がする。新興宗教団体の名前が真羅(しんら)〜教。読み方を違えると「マラ」になるのには笑ってしまった。変な歌を作ったりするところはオウムを意識してたんやろか。歌の感じもそっくりだしね。
監督:天間敏広 製作:鍋島壽夫、田中迪 原作:ビートたけし 脚本:加藤祐司、中田秀子
企画:森昌行 撮影:川上皓市 音楽:藤井尚之 美術:磯田典宏
出演:萩原聖人、玉置浩二、岸部一徳、ビートたけし、下絛正巳、山口美也子、もたいまさこ、国舞亜矢
田舎を一人旅をしていたカズオ(萩原聖人)はある新興宗教団体の布教活動を目撃する。うさんくさそうな男(ビートたけし)が声を張り上げ、これまたヨレヨレの爺さん(下条正巳)が手かざしで車椅子の婆さんの足を治してしまう。婆さんがスタスタと歩き出すと長身の男(岸部一徳)が本を回りの人に売りつけようとする。電車に乗ろうと駅に行くと教祖の爺さんと親しく話す婆さんがいた。何のことは無い、サクラだったのだ。元より目的のある旅じゃない。面白そうと思ったカズオは同行を申し出るが駒村(玉置浩二)に断られてしまう。彼は真面目に宗教をやっていたので、興味本位な入信を嫌ったのだ。が、声を張り上げていたうさんくさい男、司馬の許可を得て同行することになる。
司馬と長身の男、呉にしてみれば、新興宗教なんてのはビジネス以外の何者でもない。この”教祖”も実は酔っ払いの浮浪者で手に仕込んだバッテリーで火花を出しているだけだった。彼ら二人が経理部門をしていた。それに対し、駒村は神は本当にいると信じていた。手かざしは本物なんだよ、と熱く語る駒村は呉と司馬を嫌っていた。ドサ回りのように田舎の村々を回っての布教の成果か、徐々に大きくなる教団。調子に乗った教祖は呉や司馬の言うことを聞かなくなり、「本当の病人を連れてきてみろ。今の俺なら治せるよ」などとフザけたことを口走るようになっていた。キレた司馬はある晩、金を握らせて追い出してしまう。二代目教祖に任命されたのは何とカズオだった。
何も分からぬままに教祖になったカズオだったが、断食や滝に打たれるなどの修行を行って何とか教祖らしくなろうとする。これが真面目な考えだったかわからないが、その姿に感動した駒村は教団の金儲け主義を批判し、司馬に対抗する。。。
新興宗教の中にはどう考えてもうさんくさいし、金儲けにしか見えないものもあります。が、それを信じている人は至って真面目で真剣。何年か前のオウム事件にしても、一般人から見れば「わからん」の連続で結局、双方とも何の歩み寄りがないまま現在に至っています。オウムはそれでも無くならないしね。80年代の一時期、ポストモダンってのがはやって新興宗教もそうした中で大きくなった。お互いの価値観を認めようってやつ。映画に出てくる司馬ってのはそんなの、全然信じていない。形はどうであれ、金を儲けることが全てだろうと。これは司馬を演じて原作を書いたたけしの考えでもあるんでしょう。でもその司馬も結局はつまづいてしまう。つまづいたところで「罰があたったんだ」なんて思う司馬もやはり、この新興宗教の一員でしかなかったのです。
カズオは”神輿の教祖”ですが、修行をしたことで自分に神の力があると思い込んでしまう。映画の中ではまともな人間に見えますが、一番のお調子者です。ラストで呉に「無礼者!」と一喝するシーンがあるのですが、ちっとも迫力が無い。これは萩原の演技力がない(萩原は相当に演技力を持った俳優だと思う)のではなくて、こいつも結局はこの狭い団体の中で権力を握ろうとするちっぽけな人間でしかないという演出なんでしょう。
前半のドサ回りののどかなシーンから徐々にどろどろとした抗争に突入していく。展開が割りと早くてテンポがとてもいい。94分という時間にコンパクトにまとめた脚本がなかなか見事。監督はたけしの助監督をしていた天間敏広。これが初監督作品でしたが、その後は一度もメガホンを取っていません。なかなかいい演出をしていただけにもったいない気がする。新興宗教団体の名前が真羅(しんら)〜教。読み方を違えると「マラ」になるのには笑ってしまった。変な歌を作ったりするところはオウムを意識してたんやろか。歌の感じもそっくりだしね。
監督:天間敏広 製作:鍋島壽夫、田中迪 原作:ビートたけし 脚本:加藤祐司、中田秀子
企画:森昌行 撮影:川上皓市 音楽:藤井尚之 美術:磯田典宏
出演:萩原聖人、玉置浩二、岸部一徳、ビートたけし、下絛正巳、山口美也子、もたいまさこ、国舞亜矢
コメント