グッバイ!レーニン〜さらば愛しの社会主義〜
2004年3月2日 洋画全般
今日は東京で見てきたドイツ映画の「グッバイ!レーニン」。ベルリン映画祭での最優秀賞受賞をかわぎりにドイツ国内でヒットをかっとばしてヨーロッパ中を巻き込む大ヒットになった映画です。昨年の東京国際映画祭でも公開されました。アカデミー外国語映画賞へはノミネートされなかったのですが、映画批評家よりこの映画がどうしてノミネートされなかったかという疑問の声があがりました。
昨年、「レボリューション6」「ビタースウィート」というドイツ映画が公開されて、ドイツ映画には注目していたのですが、この作品も大変面白かった。前から気になってた作品でこのたびの東京行きはこの映画を見るというのも一つの目的でした。(関西では3月末より公開なもんで。)封切の21日は全ての回が満席で二日目の22日の初回も見事に200余りの座席が満員になりました。何年ぶりかに行った恵比寿ガーデンシネマは相変わらず、小奇麗でどこかこまっしゃくれておったのでした。この翌日にも「25時」も見に行ったので私は東京での3日間、毎日ここに行っておったことになる。恵比寿マニアか、俺は。
舞台は1989年。ベルリンの壁崩壊直前のベルリン。東ベルリンに住む(つまり東ドイツ人)アレックスは変わりつつある時勢を敏感に感じていた。彼の父親は彼が子どもの頃に西ドイツに亡命。彼と姉を育てた母親はその反動からか、東ドイツに忠誠を尽くす愛国主義者であった。建国40周年を祝う盛大な式典が行われた10月7日に東ドイツ各地に改革を求める大規模なデモがわきあがった。その中にアレックスの姿もあったのだが、彼を見た母親は卒倒してしまった。心臓発作で彼女は昏睡状態となってしまった。アレックスは自分のせいだ、と感じて母親の看病を続けた。
8ヵ月後、母親は奇跡的に目を覚ました。「もう一度強いショックを与えると命取りになる」という医師の言葉にとまどうアレックス。党書記長であるホーネッカーは辞任し、あのベルリンの壁も崩壊していたのだ。東ベルリンにも資本主義の波が押し寄せてきた。バツイチ、子持ちの姉はバーガーキングに勤めだし、恋人もできた。アレックスも衛星放送のセールスマンに転職し、ワールドカップをダシにアンテナを西ドイツから来た映画オタクのデニスと売り歩いていた。街にはコカコーラの看板が翻り、ピカピカのスーパーマーケットがあちこちにたっていた。こんなベルリンの様子を見れば、母さんは死んでしまう。。アレックスは母親を自宅に連れ帰り、世の中は何一つ変わってないフリをしようとした。
が、それは思った以上に困難であった。母親が愛した東ドイツのまずい食べ物は西ドイツ産の良質なものに駆逐されて姿を消していた。ゴミ箱から瓶を拾い集め、古いピクルスを何とか探し集めた。が、今度は母親はテレビが見たいと言い出した。。
ベルリンの壁の崩壊が1989年の11月9日。東西ドイツの統一がそれから約一年後の10月3日。当時、私は小学生で同時代を生きていたのですが「何か大変なことが起こったらしい」ぐらいの感想しかありませんでした。この時期、ワルシャワ条約機構の国々の民主化が次々と起こっており、ベルリンの壁崩壊はそれを決定づけた出来事でした。そしてまもなく、社会主義国の親分であったソ連もその看板を下ろすことになります。たった一年ほどで体制が変わってしまったのですからそこに住む人々にとっては「何か大変なこと」が起こったに相違なかったのです。
この映画のプロデューサーであるシュテフォン・アルントは「ベルリンの壁の崩壊を背景にした映画を撮るには10年かかった」と言っています。冷静にこの現象を見つめるのには確かに時間が必要であったと思います。歴史的に言うと「経済崩壊した東ドイツが西ドイツに併合された」の一言で終わるのだろうが、そこにはその時代を生きた人々の思いは入らない。やはり10年後だから、語れるということはあるのだろう。日本でも「光の雨」が作られるのに何年かかったことか。
とまあ非常に大きなテーマを扱った映画なんだが、肩の力を抜いて見てられるのはまず面白いことだろう。テレビを見たいと言った母親の為に東ドイツが健在である偽の番組を作るシーンは面白かったし、アレックスの奮闘ぶりも微笑ましく見てられる。展開もコロコロ変わるので飽きずに見てられます。母親をだます為に始めた演出だったがいつかアレックスは東ドイツは本当に駄目な国だったのか、と疑問を持ち始めるのだ。
好きだったのはかつて宇宙飛行士だった男が現在、タクシー運転手になっていたエピソードです。アレックスは子どもの時に彼が宇宙から挨拶をしているのを見ており、ずっと彼をヒーローと思っていた。やはり東ドイツは遠く過去になっていたのだ。そのことを噛み締めながら、彼の運転するタクシーに乗って亡命した父親に会いに行くシーンも実にいいです。いろんな意味で考えさせられる映画で大人の鑑賞に堪えうる映画です。万難を排しても見に行かれますよう。
昨年、「レボリューション6」「ビタースウィート」というドイツ映画が公開されて、ドイツ映画には注目していたのですが、この作品も大変面白かった。前から気になってた作品でこのたびの東京行きはこの映画を見るというのも一つの目的でした。(関西では3月末より公開なもんで。)封切の21日は全ての回が満席で二日目の22日の初回も見事に200余りの座席が満員になりました。何年ぶりかに行った恵比寿ガーデンシネマは相変わらず、小奇麗でどこかこまっしゃくれておったのでした。この翌日にも「25時」も見に行ったので私は東京での3日間、毎日ここに行っておったことになる。恵比寿マニアか、俺は。
舞台は1989年。ベルリンの壁崩壊直前のベルリン。東ベルリンに住む(つまり東ドイツ人)アレックスは変わりつつある時勢を敏感に感じていた。彼の父親は彼が子どもの頃に西ドイツに亡命。彼と姉を育てた母親はその反動からか、東ドイツに忠誠を尽くす愛国主義者であった。建国40周年を祝う盛大な式典が行われた10月7日に東ドイツ各地に改革を求める大規模なデモがわきあがった。その中にアレックスの姿もあったのだが、彼を見た母親は卒倒してしまった。心臓発作で彼女は昏睡状態となってしまった。アレックスは自分のせいだ、と感じて母親の看病を続けた。
8ヵ月後、母親は奇跡的に目を覚ました。「もう一度強いショックを与えると命取りになる」という医師の言葉にとまどうアレックス。党書記長であるホーネッカーは辞任し、あのベルリンの壁も崩壊していたのだ。東ベルリンにも資本主義の波が押し寄せてきた。バツイチ、子持ちの姉はバーガーキングに勤めだし、恋人もできた。アレックスも衛星放送のセールスマンに転職し、ワールドカップをダシにアンテナを西ドイツから来た映画オタクのデニスと売り歩いていた。街にはコカコーラの看板が翻り、ピカピカのスーパーマーケットがあちこちにたっていた。こんなベルリンの様子を見れば、母さんは死んでしまう。。アレックスは母親を自宅に連れ帰り、世の中は何一つ変わってないフリをしようとした。
が、それは思った以上に困難であった。母親が愛した東ドイツのまずい食べ物は西ドイツ産の良質なものに駆逐されて姿を消していた。ゴミ箱から瓶を拾い集め、古いピクルスを何とか探し集めた。が、今度は母親はテレビが見たいと言い出した。。
ベルリンの壁の崩壊が1989年の11月9日。東西ドイツの統一がそれから約一年後の10月3日。当時、私は小学生で同時代を生きていたのですが「何か大変なことが起こったらしい」ぐらいの感想しかありませんでした。この時期、ワルシャワ条約機構の国々の民主化が次々と起こっており、ベルリンの壁崩壊はそれを決定づけた出来事でした。そしてまもなく、社会主義国の親分であったソ連もその看板を下ろすことになります。たった一年ほどで体制が変わってしまったのですからそこに住む人々にとっては「何か大変なこと」が起こったに相違なかったのです。
この映画のプロデューサーであるシュテフォン・アルントは「ベルリンの壁の崩壊を背景にした映画を撮るには10年かかった」と言っています。冷静にこの現象を見つめるのには確かに時間が必要であったと思います。歴史的に言うと「経済崩壊した東ドイツが西ドイツに併合された」の一言で終わるのだろうが、そこにはその時代を生きた人々の思いは入らない。やはり10年後だから、語れるということはあるのだろう。日本でも「光の雨」が作られるのに何年かかったことか。
とまあ非常に大きなテーマを扱った映画なんだが、肩の力を抜いて見てられるのはまず面白いことだろう。テレビを見たいと言った母親の為に東ドイツが健在である偽の番組を作るシーンは面白かったし、アレックスの奮闘ぶりも微笑ましく見てられる。展開もコロコロ変わるので飽きずに見てられます。母親をだます為に始めた演出だったがいつかアレックスは東ドイツは本当に駄目な国だったのか、と疑問を持ち始めるのだ。
好きだったのはかつて宇宙飛行士だった男が現在、タクシー運転手になっていたエピソードです。アレックスは子どもの時に彼が宇宙から挨拶をしているのを見ており、ずっと彼をヒーローと思っていた。やはり東ドイツは遠く過去になっていたのだ。そのことを噛み締めながら、彼の運転するタクシーに乗って亡命した父親に会いに行くシーンも実にいいです。いろんな意味で考えさせられる映画で大人の鑑賞に堪えうる映画です。万難を排しても見に行かれますよう。
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