21日より二泊三日で東京に行ってきた。私は京都近郊に生まれ、京都の学校に通い、三条、出町柳を遊び場とし、長じては京都の会社に勤めている京都人であるが短期間ながら東京に住んでいた時期もあった。大学を卒業してから勤めたザリガニ商会(仮名)は築地にあったのだ。

 短期間の研修終了後に関西に帰還する予定だったが、会社の方針とかで新人は全員、東京に留め置かれた。コンピュータ音痴でプログラムなんかくんだことなかった私だったが、その会社ではSEであった。会社の命運をかけた新事業に新人全員を配属させたのである。掛け声は大層勇ましかったがこの手の部署の結末は大体に予想がつく。「俺は君たちの会社のパパだ」こういう人間は先天的に受け付けない。突撃ラッパだけで次期社長まで駒を進めてきた副社長直属の部下になった。部下ではなく、信者と言った方がより正確だろう。信者になりきれなかった私は一年も立たないうちに辞めて関西に帰ってしまった。
 
 40人近く同期で辞めたのは私で二人目。ほとんど口を聞く事が無かった私に送別の宴をはってくれたのは、たとえ呑む理由が必要だった、ことを差し引いても嬉しかった。が一番嬉しかったのは在社時にはそれほど仲はよくなかった友達がその次の日に有楽町でご飯をおごってくれたことだ。

 あれから3年。故郷に帰った私は地元で、どうにかメシを食っている。今度の東京行きはその有楽町でご飯をおごってくれた友人との邂逅である。それが第一の目的であった。

 一年ぶりにあう友人は元気そうに見えた。会社の状況を聞くとやはり私が予想した通りに突撃ラッパの派閥とそれに反する派閥の内ゲバに明け暮れていた。”パパ”は業績の悪化はバブル崩壊と創業者一族出身の会長に押し付けてあくまでも社長様を守った。その功か、いまだに失脚しておらんらしい。会社の命運を背負うはずだった部署は今やお荷物に成り下がり、”パパ”はもうその部署には興味を持ってないらしい。少しでも批判をした社員は子会社に飛ばされてしまっていた。が、批判精神を持つ社員は有能だったのである。後に残ったのは凡庸なるコンピュータ土方、つまりプログラマーであった。船が一度傾きだすと我こそは逃げ出してしまう。昨年の5月以降で実に10人近くの同期が辞めてしまっていた。石の上にも三年。ポピュラーなことわざであるが意味は深いのだ。友人もやはり飛ばされてしまっていた。「いずれは辞めるつもりだったんだが、順番を間違えてしまった」とつぶやいていた。

 私には大学時代からの友人がいる。彼は就職活動の開始が遅く、卒業後の就職活動を余儀なくされた。そのために大層、苦労して今の会社に入った。が、そこも彼が将来を託する会社でなかった。転職をしたいと相談を受けたのは昨年の秋だった。私は全力の支援を約束して相談に乗った。が、彼の「働きながら勉強をする」には反対をした。捨て身の覚悟をしなければ、とても成功することではなかったからだ。が、彼の意志は固かった。できるだけの支援を約束した私は自分の使った参考書を全て進呈した。彼が会社を辞める決心をしたのはその一週間後だった。「あんたの言いたいことがわかった。全力でやる。」捨て身になった。私より数段、厳しい戦いになると思う。

 私は時々思う。もし、あのままとどまっていたらどうなっていたか。未来に「if」は無用であるが、想像は自由である。が、やはり何も浮かんでこない。だからこそ辞めたのであろう。彼らはどうなのだろうか。彼もやはり会社を辞めて希望していた米国留学に旅立ってしまうのだろうか。彼は私より年上で30歳を目前にした為かどこか言葉に力が入っていた。確かに気持ちがいい、しかし足元を見るとその空は晴れてはいない。いつ一歩を踏み出すか。まるで今朝、恵比寿ガーデンプレイスから見た東京の景色のようではないか。綺麗な青空に見えるが、よく見ると曇って何も見えない。この中でこれからももがいて行かねばならないのか。

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