今日、紹介するのは知る人ぞ知る名作「人情紙風船」。1937年の作品です。監督は山中貞雄。「もし山中貞雄がいたら黒澤の出る幕はなかったかもしれんね」とまで言われた監督です。

 京都生まれの京都育ち。子供の頃からの大の映画好き。長じては、日本映画の始祖マキノ省三の息子マキノ正博の縁で脚本家になります。時は第一次日本映画最盛期。脚本家として頭角を表した彼にも監督の口がかかります。弱冠、23歳で監督デビュー。その年の話題を掻っ攫います。テンポよく、斬新な演出。その新しいスタイルは「髷のある現代劇」と評されました。

 現在、残っている山中貞雄監督作品は「丹下左膳余話 百万両の壺」「河内山宗俊」そしてこの「人情紙風船」の3作品ですが、これらの作品からだけでもこの監督の力量は十分窺い知れます。「丹下左膳余話 百万両の壺」なんてすごいもん。テンポの良さからカット割、展開の面白さで何回見ても飽きない。京都で上映されるたびに見に行ってます。

 江戸深川のある長屋。折からの長雨で住人達は食うや食わずの日々を送っていた。やっと雨がやんだと思えば長屋に住んでいた浪人が首を吊った。詮議の為に足止めを食う長屋の住人。やけになった長屋の住人は大家が出した回向のお金で酒盛りをする。そんな住人を横目に同じく長屋の住人である海野又十郎(河原崎長十郎)は仕官の口を求めて重役の屋敷に日参する。妻は生計を立てる為に内職で紙風船を作り続けている。

 その海野の隣に住む髪結いの新三(中村翫右衛門)はモグリで賭場を開いてヤクザの親分に睨まれている。ある日、新三は質屋の前で海野がヤクザに袋叩きになっているのを見つけ、助けに入る。海野は父親の同僚で現在、藩の重役である毛利三左衛門(橘小三郎)に掛け合っていた。毛利にとっては海野は会いたくない相手。ヤクザと結んでいる質屋の主人に頼んで厄介払いさせたのだ。

 が、海野はそれでも諦めない。妻には今度逢ってくれるらしい、と嘘をつく。大雨の日、海野は質屋の前で毛利を捕まえる。父が生前したためた手紙を読んでもらおうとするが受け取ってももらえず、「二度と目の前に現れるな」と冷たく言い捨てられる。しかし彼はそれでも妻の前では「手紙は受け取ってもらえた」と嘘をつき続けるのだった。

 新三は賭場の資金に商売道具を質入れしにいくが邪険に追い返される。質屋が自分の娘を毛利の縁で大名に嫁がせようとしていることを知った新三は腹いせに娘を誘拐する。質屋は犯人は新三に違いないと睨み、親分に新三の家を探らせる。が、娘は出てこない。娘は隣に住む海野の家にいたのだ。親分の鼻を明かしたくて始めた誘拐だったが、大家の仲介で金がついた。長屋の皆を誘っての飲めや歌えやの大宴会。その席上、海野は毛利が困ったという話を聞いて大変喜ぶのだった。帰り道、新三は一人、行き先も告げずに去っていった。

 帰省していた妻は長屋で夫が今度の誘拐に一枚噛んでいる事を知る。そんなことも知らずに上機嫌に帰って来る海野。その着物から覗いているのは彼が渡したと言った父親の手紙。全てを察した妻は。。。

 あくる日、長屋で無理心中の死体が発見される。その家からこぼれ出た紙風船がゆっくりとどぶを流れていく。。

 映画にこめたメッセージをくどくどと説明することなく、画面に映る紙風船だけで見事に表しています。全体的に喜劇調で、苦しい物語なのにどこかハッピーエンドを期待していた自分は度肝を抜かれました。こんな悲しい映画あるか。何故、彼が死ななくてはいけないのか、と感じてしまう。が、このエンドなくてはこれだけの余韻はなかっただろう。

 この作品の封切日に赤紙が届き、山中貞雄は中国戦線に発ちます。1938年9月17日、野戦病院にて病死。享年29歳。五ヶ月前、彼は従軍記のノートに遺言を残しています。

 「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず。

そして仲間に宛てて「よい映画をこさえてください」と書き残しています。合掌。

*山中貞雄の従軍記については京都文化博物館で現在、展示されています。


コメント

お気に入り日記の更新

日記内を検索