アバウト・シュミット〜終わり無き旅〜
2003年5月25日 本日は「アバウト・シュミット」。日本映画ばかり取上げるこのサイトにおいては久しぶりの外国映画です。実は私、ジャックニコルソンのファンでして、というか私が映画好きになったきっかけは「恋愛小説家」でして、映画見始めた頃はジャックの出演してる作品ばかり見てました。ということで、今回の映画も封切初回に見に行って参りました。京都の美松劇場は相変わらず、ガラガラでした。
ジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミットは、長年勤めた保険会社の定年退職の日を迎えた。42年間連れ添った妻に独立している、愛する一人娘のジーニー、そして多くの友人と後輩。彼の人生はこれからも順調であるはずだった。。だが。
新しい人生の始まりの日、妻は彼にそう言った。しかし彼にはどうもその実感が持てなかった。それどころか、彼には妻がやることも言うこともさっぱり理解できなかった。こんなんとこれからずっと一緒か。。
いつも通り、7時にきっかり目が覚めると何もやることがない。退屈しのぎにテレビで見たチャリティ団体に応募した。後輩が「また色々教えてください」と言っていたのを思い出し、会社に出向くのだが体よく追い出されてしまう。そしてその帰り、彼は自分が後輩の為に作成した資料が封を開けることなく、棄てられているのを目撃する。
ムカつく気持ちと情けない気持ちになって帰ってくるとチャリティ団体から封書が帰ってきている。月々22ドル募金し、アフリカの少年の”養父”になってくれ、云々。こうして彼はンドゥグという少年の”養父”になった。端書に「子供に手紙を送ってあげてください。」彼は自己紹介がてらに手紙を書き始めるが、文章を書くというのは人を正直にさせる。日常の不満や妻の悪口などを書いてしまう。彼は手紙を投函しようと妻に一声かけて出かける。
夕方、帰宅した彼が見たのは床につっぷした妻の姿だった。妻は急死してしまった。葬式に追われる中、しばらく会わなかった娘が帰ってくる。傍らにいるムーア髯の変な男は彼の婚約者。近日にも彼らは結婚する。妻はジーニーと連絡をとることが多かったが、彼はどうにもこのウォーターベッドを販売する、バツイチの薄らハゲが好きになれなかった。
やがてジーニーとシュミットはどうでもいいことから決裂。シュミットは42年ぶりの独身生活に入る。煙になってその価値がわかるのは煙草と奥さん。彼は実は自分が妻を愛していたことを知るが、彼の親友が妻に当てた手紙を見て妻が自分を裏切っていたことを知る。もう何年も前のこととしても彼は許すことができなかった。妻、会社、友人、娘。。。全てを失ってしまった。。
ストーリー自体は単調で批評や予告を見た方はご存知のように、ラストは娘の結婚式に出席したシュミットが最後にンドゥグの絵を見て号泣するシーンで終わっています。予告の「すべてを無くした日、いくつもの海と山を越え、人生最高の贈り物が届いた。」からしても、様々な批評を見てもこのラストはハッピーエンドにされています。
しかし私はそうかな、と思う。ンドゥグは6歳の少年で読み書きもできません。シュミットがせっせと送った手紙は宣教師によって読み聞かされているかもしれませんが手紙の意味はほとんどわかってないでしょう。いや私は手紙は読まずに倉庫にほり込んであると思います。彼が会社の為に作成した資料のように。シュミットのことを何も知らない少年が描いた絵。そんな絵でもし、彼が報われたとなるとこれはハッピーエンドなんでしょうか?事実なんかどうでもいい、彼がどう思うかが問題だ、と思われる方もいらっしゃるでしょう。そういう考え方に一種の留保を認めつつも私はこれは悲劇だと思います。
シュミットが求めたもの、それは「自分が生きた証」ではなかったのだろうか。何となく、彼は「自分が生きた証」は会社に、家族に残してきたと考えていた。この映画のラスト、彼はそれがすべて幻想であったことを知る。その彼が一枚の絵で報われる、とはあまりにも悲しすぎる。
映画秘宝で町山智浩氏が指摘するようにこれは監督のアレクサンダー・ペインによる「生きる」なのである。ただ違うのは、渡辺課長が仕事で「自分が生きた証」を作れたのに対し、シュミットは何も残すことができなかった。実際のところ、それが真実なのだろう。
この映画は、リアルと向き合わざるをえなかった男を描いているが決して絵空事ではない。何故なら人生とは「自分が生きた証」を自らに問うて行く旅なのだから。
ジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミットは、長年勤めた保険会社の定年退職の日を迎えた。42年間連れ添った妻に独立している、愛する一人娘のジーニー、そして多くの友人と後輩。彼の人生はこれからも順調であるはずだった。。だが。
新しい人生の始まりの日、妻は彼にそう言った。しかし彼にはどうもその実感が持てなかった。それどころか、彼には妻がやることも言うこともさっぱり理解できなかった。こんなんとこれからずっと一緒か。。
いつも通り、7時にきっかり目が覚めると何もやることがない。退屈しのぎにテレビで見たチャリティ団体に応募した。後輩が「また色々教えてください」と言っていたのを思い出し、会社に出向くのだが体よく追い出されてしまう。そしてその帰り、彼は自分が後輩の為に作成した資料が封を開けることなく、棄てられているのを目撃する。
ムカつく気持ちと情けない気持ちになって帰ってくるとチャリティ団体から封書が帰ってきている。月々22ドル募金し、アフリカの少年の”養父”になってくれ、云々。こうして彼はンドゥグという少年の”養父”になった。端書に「子供に手紙を送ってあげてください。」彼は自己紹介がてらに手紙を書き始めるが、文章を書くというのは人を正直にさせる。日常の不満や妻の悪口などを書いてしまう。彼は手紙を投函しようと妻に一声かけて出かける。
夕方、帰宅した彼が見たのは床につっぷした妻の姿だった。妻は急死してしまった。葬式に追われる中、しばらく会わなかった娘が帰ってくる。傍らにいるムーア髯の変な男は彼の婚約者。近日にも彼らは結婚する。妻はジーニーと連絡をとることが多かったが、彼はどうにもこのウォーターベッドを販売する、バツイチの薄らハゲが好きになれなかった。
やがてジーニーとシュミットはどうでもいいことから決裂。シュミットは42年ぶりの独身生活に入る。煙になってその価値がわかるのは煙草と奥さん。彼は実は自分が妻を愛していたことを知るが、彼の親友が妻に当てた手紙を見て妻が自分を裏切っていたことを知る。もう何年も前のこととしても彼は許すことができなかった。妻、会社、友人、娘。。。全てを失ってしまった。。
ストーリー自体は単調で批評や予告を見た方はご存知のように、ラストは娘の結婚式に出席したシュミットが最後にンドゥグの絵を見て号泣するシーンで終わっています。予告の「すべてを無くした日、いくつもの海と山を越え、人生最高の贈り物が届いた。」からしても、様々な批評を見てもこのラストはハッピーエンドにされています。
しかし私はそうかな、と思う。ンドゥグは6歳の少年で読み書きもできません。シュミットがせっせと送った手紙は宣教師によって読み聞かされているかもしれませんが手紙の意味はほとんどわかってないでしょう。いや私は手紙は読まずに倉庫にほり込んであると思います。彼が会社の為に作成した資料のように。シュミットのことを何も知らない少年が描いた絵。そんな絵でもし、彼が報われたとなるとこれはハッピーエンドなんでしょうか?事実なんかどうでもいい、彼がどう思うかが問題だ、と思われる方もいらっしゃるでしょう。そういう考え方に一種の留保を認めつつも私はこれは悲劇だと思います。
シュミットが求めたもの、それは「自分が生きた証」ではなかったのだろうか。何となく、彼は「自分が生きた証」は会社に、家族に残してきたと考えていた。この映画のラスト、彼はそれがすべて幻想であったことを知る。その彼が一枚の絵で報われる、とはあまりにも悲しすぎる。
映画秘宝で町山智浩氏が指摘するようにこれは監督のアレクサンダー・ペインによる「生きる」なのである。ただ違うのは、渡辺課長が仕事で「自分が生きた証」を作れたのに対し、シュミットは何も残すことができなかった。実際のところ、それが真実なのだろう。
この映画は、リアルと向き合わざるをえなかった男を描いているが決して絵空事ではない。何故なら人生とは「自分が生きた証」を自らに問うて行く旅なのだから。
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