監督と名の付く商売は多くありますが主に、野球などのスポーツの監督、現場監督、そして映画監督が挙げられると思います。昨今亡くなった深作監督は正に監督と言う言葉がしっくり来る人でした。辞書で引くと監督は「下の者に指示を出してその行動を統制すること」とあります。映画とは一人で出来るものではなく、脚本、美術、小道具、音楽など様々なスタッフとキャストで作り上げる作品です。監督は全体を統括し、指示を出します。映像作家などという言葉は一人で何もかもやってるようで、非常に傲慢に聞こえます。今回見たこの「壬生義士伝」という作品は正に全員で丁寧に作り上げたと言える作品です。監督は滝田洋二郎。この人もまた監督という言葉がとても似合う人です。どんな映画でも撮ることが出来る、というのは、このアーティストぶってマニアックな映画を撮ることに打ち込んでいる「映像作家」さんだらけの日本映画界において大変稀有な才能だと思います。
 幕末。新撰組に吉村貫一郎という男がいた。この男、腕は滅法冴えるのだが妙に吝嗇なところがあり、金への執着が大変強い。皆はそんな彼を愛したが一人、気に入らない男がいた。新撰組きっての使い手である斎藤一。彼は吉村を嫌い、彼を斬ろうとしたこともあった。吉村は南部藩を脱藩し、新撰組に参加したのだがある秘密があった。彼は家族を飢えさせない為に新撰組に入隊し、給金を故郷に送金していた。時代の動きは早い。やがて新撰組は窮地に陥っていく。。
 ご存知のように原作は今や日本一の流行作家となった浅田次郎の「壬生義士伝」。一昨年、テレビ東京の製作でドラマ化されました。テレビ東京のドラマは12時間という長さからか、原作をそのまま映画化していました。原作は吉村貫十郎を巡る人々の回想で成り立っており、これをどのように映画化するのかが原作のファンでもある私の関心の一つになっておりました。あの長い小説をどのように二時間にまとめるのだろうか。映画は回想形式を一部残しながら、吉村と斎藤を中心に映画を構成。年老いた斎藤と吉村の南部藩時代の上司である大野の息子・千秋に回想させる形式を取っており、なかなかよくできていました。原作には登場しない斎藤の妻・ぬいが実によかった。あれで吉村のライバルである斎藤という人物に深みが出ました。
 なお、テレビ東京と合同とは言え、「たそがれ清兵衛」に引き続いて松竹が製作。いよいよ松竹も復活かもしれません。つくづく映画っていいなあと思え、純粋に感動できる作品です。お見逃しなきよう。

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